Impression Sunrise by Claude Monet, 1872

印象・日の出 – 1872年11月13日午前7時35分

この絵が描かれた時刻は、1872年11月13日の午前7時35分です。推定ではなく計算です。2014年、マルモッタン美術館は天体物理学者ドナルド・オルソンに分析を依頼しました。彼はル・アーヴルの古写真からモネが泊まったホテルの部屋の視界を復元し、潮汐表で大型帆船が入港できた日を絞り込み、気象記録で荒天の日を消し、最後に画面のなかの煙突の煙がなびく向きから風向を読み取って、日付を特定しました。

基本情報

描かれた場所と時刻

モネはル・アーヴルのグラン・キーに面したアミロテ・ホテルの一室から、南東を向いてこの絵を描きました。一度の制作で、数時間で仕上げています。

この絵が日の出なのか日没なのかは長らく議論の的でした。美術館に寄贈されてからおよそ二十年のあいだ、目録には『印象、日没』と記されていたほどです。制作年についても、モネ自身が署名の横に「72」と書き入れているにもかかわらず、のちのカタログの多くはそれを退け、1873年の作としてきました。

オルソンの分析がこの二つの問題に答えを出します。画面の太陽の高さは地平線から2~3度、日の出から二、三十分後に相当します。太陽がこの方角から昇るのは、一年のうち11月中旬と1月下旬だけです。大型の船が出入りしていることは満潮を意味し、潮汐の計算と組み合わせると、候補は1872年と1873年の19日に絞られました。さらに嵐や雨、高波の日を気象記録から消すと6日が残り、煙のなびく向きが示す東風が吹いていたのは、そのうち2日だけでした。1872年11月13日と、1873年1月25日です。

最後の一歩を踏み出したのは、美術史家ジェラルディーヌ・ルフェーヴルでした。彼女は展覧会カタログの論考で、モネの当時の足取りから見て1873年1月にル・アーヴルにいた可能性は低く、署名の横の「72」こそ正しいと論じます。こうして美術館は、1872年11月13日午前7時35分を、この絵が描かれた最も確からしい日時として示しました。

つまりこの絵は即興的に見えますが、そのなかには特定の朝の物理的条件が正確に記録されています。百四十年後に逆算できるほど正確にです。科学が名画の通説を書き換えた例としては、教科書が印刷された後に判明した、名画についての新発見もあわせてお読みください。

この作品が忘れられない理由

この絵は「完成した絵とは何か」という前提を覆しました。当時のサロンの基準は精密な描写と滑らかな表面です。モネはそれを無視し、批評家たちはこの画面を未完成と呼びました。

太陽について興味深い事実があります。ハーバード大学の神経生物学者マーガレット・リヴィングストンが指摘したように、この絵の赤い太陽の明度は周囲の空とほぼ同じです。白黒に変換すると太陽は消えます。私たちの視覚系では明度を処理する経路と色を処理する経路が別々であるため、この太陽は位置が不安定に感じられ、脈打つように見えます。モネがこの原理を知っていたかはわかりませんが、結果はそうなっています。名画を見るとき脳のなかで何が起きているのかについては、名画は脳に何をするのかで詳しく取り上げています。

手前の船はわずかな粗い筆致で処理されています。背景には工場の煙突とクレーンが霧に溶けています。ロマンティックな自然の風景ではなく、産業港の夜明けです。

名前がついた経緯

1874年4月15日、モネと仲間たちは写真家ナダールの旧スタジオで独立展を開きました。サロンに落選し続けた画家たちが自ら作った展覧会です。この「印象派展」は1886年まで計八回開かれました。1881年の第6回には、ドガが生前に唯一公開した彫刻『14歳の小さな踊り子』が、そして最後となった1886年の第8回には、新印象主義の出発点となったスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』が出品されています。

カタログに載せる題名を尋ねられたモネは、これをル・アーヴルの風景とは呼べない、それでは漠然としすぎていると答えました。そして、ただ「印象」と書いておけと言ったのです。

4月25日、批評家ルイ・ルロワが雑誌『ル・シャリヴァリ』に「印象派たちの展覧会」という記事を発表します。アカデミー派の画家と交わす架空の対話という形式で書かれた嘲笑でした。ところが画家たちは、その名をそのまま受け入れました。

この絵がたどった道

1874年5月、収集家エルネスト・オシュデがこの絵を800フランで購入しました。

その四年後、彼の破産に伴い、コレクションがドルーオーで競売にかけられます。この絵の落札価格は210フランでした。四分の一に下がったのです。買ったのは、印象派の画家たちを支えた後援者として知られる医師ジョルジュ・ド・ベリオでした。のちにモネたちは、マネの『オランピア』を国家に残すために募金を募ることになります。仲間の作品を自分たちの手で守ろうとした時代でした。

ベリオの娘ヴィクトリーヌと娘婿が1940年、この絵をマルモッタン美術館に寄贈しました。ところが美術館はこの作品を過度に前衛的と見なし、事実上放置します。戦時中はシャンボール城に保管されました。

つまり印象派という名を生んだこの絵は、描かれてから七十年近く、誰にも大事にされていませんでした。

1985年10月27日には、武装した五人組がマルモッタン美術館に押し入り、この作品を含む複数を奪いました。1990年、コルシカ島で回収されています。

クロード・モネについて

モネ(1840~1926)はパリに生まれ、ル・アーヴルで育ちました。少年期に画家ウジェーヌ・ブーダンから戸外で描くことを学んでいます。この絵が故郷の港を描いたものであることは偶然ではありません。

彼は生涯、同じ対象を条件を変えて繰り返し描きました。積みわら、ルーアン大聖堂、そしてジヴェルニーの『睡蓮』連作です。一つの事物ではなく、その事物に当たる光の状態を描く方法であり、この絵はその出発点にあります。

遺産と影響

印象派はポスト印象派、フォーヴィスム、そして20世紀の抽象へ向かう道を開きました。セザンヌ、ファン・ゴッホ、マティスがこの流れから出発しています。ファン・ゴッホがアルルで描いた『夜のカフェテラス』の色彩も、パリで印象派と出会わなければ生まれなかったものです。

ただし一点、付け加えておくべきことがあります。この絵が「印象派を始めた作品」という記述は便宜的な要約です。モネと仲間たちはこの絵の前から同じ方向で制作しており、この作品が特別だったのは絵そのものよりも、題名と、その題名が招いた嘲笑のほうでした。美術史において、名前がつく瞬間が常に最も重要な瞬間であるとはかぎりません。

日本では?

この絵はこれまでに何度か日本を訪れています。もっとも近年では、2015年から2016年にかけての「マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展」です。東京・上野の東京都美術館では「21年ぶりの東京」として大きな話題になりましたが、公開は会期の最初の一か月、2015年10月18日までに限られました。その後も福岡、京都で、それぞれ三週間ほどの期間限定で展示されています。それだけ館外に出ることのまれな作品だということです。

この展覧会では、モネと日本の縁もあらためて紹介されました。モネは晩年の『睡蓮』をほとんど手放そうとしませんでしたが、例外的に買い付けを許したのが、川崎造船所の社長・松方幸次郎でした。彼が集めた作品はのちに国立西洋美術館の礎となり、上野でモネの『睡蓮』を見ることができるのはそのためです。日本人にとってのモネは、この港の朝から始まり、上野の池へとつながっています。

作品が見られる場所

パリ16区のマルモッタン・モネ美術館にあります。メトロ9号線ラ・ミュエット駅から徒歩10分です。

休館日は月曜です。開館時間と料金は変更されることがあるため、訪問前に公式サイトでご確認いただき、オンライン予約をおすすめします。午前の開館直後が最も空いています。

この美術館は世界最大のモネ・コレクションを所蔵しています。モネの次男ミシェルの遺産がまるごと入っているためです。ルノワールやベルト・モリゾの作品もあります。

ただしこの作品は貸出展で不在になることがあるため、これを目的に行かれる場合は現在の展示状況を事前にご確認ください。

オランジュリー美術館の『睡蓮』大装飾画も併せてご覧になる場合は、移動時間を見込んでください。両館は徒歩圏内になく、メトロでの移動が必要です。

この絵の前で最後まで残るのは、即興性ではなく正確さです。数回の筆致で描いたように見えるこの画面のなかに、特定の日の特定の時刻の潮と風と霧が入っています。百四十年後にそれを逆算できるほど正確にです。

画像: Impression, soleil levant – クロード・モネ、1872年、マルモッタン・モネ美術館蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.

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