Moai by Unknown, 1400

モアイ – アフ・トンガリキは日本のクレーンで立てられた

島でもっとも多く撮影される場所、アフ・トンガリキの十五体は、日本のクレーンで立てられました。この十五体は、島の抗争の時代に倒され、数百年うつ伏せのまま眠っていました。そこへ1960年、チリ地震の津波が襲い、像は内陸へ押し流されて遺跡は全壊します。1992年、香川県のクレーンメーカー・タダノを中心とする日本の修復チームが大型クレーンを島に送り込み、最大で80トンを超える像を一体ずつ起こす作業は1996年まで続きました。

基本情報

  • 作者: ラパ・ヌイの石工集団。個人名は伝わっていません
  • 制作時期: 1250~1500年頃
  • 材料: 主に凝灰岩。一部に玄武岩、赤色スコリア、トラカイト
  • 数: 約900~1,000体
  • 寸法: 平均で高さ約4m、重さ約12.5トン。未完成の最大像「エル・ヒガンテ」は約21mに達し、重さは150トンを超えると推定されます
  • 芸術運動: ラパ・ヌイ美術
  • 所在地: チリ領ラパ・ヌイ(イースター島)。1995年ユネスコ世界遺産登録

タダノとアフ・トンガリキ

この作業の経緯を追っておきます。

アフ・トンガリキは、島で最大の祭壇(アフ)です。長さ約220メートルの石の基壇の上に十五体が並んでいました。ところが島の他の像と同じく、これらは抗争の時代に倒され、内陸に顔を向けてうつ伏せのまま数百年が過ぎていました。

1960年5月、チリ沖で観測史上最大の地震が発生しました。津波はイースター島にも達し、倒れていた像と基壇の石を内陸へ押し流します。遺跡は一面、石と像の散乱する場所になりました。復旧には重機が必要であり、島にはそれがありませんでした。

きっかけは日本のテレビでした。1988年、荒れたまま放置されたモアイを紹介した番組を見て、香川県のクレーンメーカータダノ、奈良国立文化財研究所、そして石工の左野勝司氏(飛鳥建設)が「モアイ修復委員会」を結成します。1992年10月にはチリ政府との協定が結ばれ、チリ大学を中心とする現地の再建委員会とともに、発掘調査と再建が始まりました。タダノは大型クレーンを島に提供し、イタリア、アメリカ、ポーランドの研究者も加わっています。

作業は1996年に完了しました。もっとも重い像は86トンとされ、90トンを超えるとする資料もあります。十五体のうち、頭上に赤い石(プカオ)を戴いて復元されたのは一体だけです。現在、日の出の撮影地として知られるあの列は、このとき復元されたものです。

「頭だけ」ではありません

ラノ・ララクの斜面に並ぶ像は、しばしば頭部だけの彫刻と誤解されます。

胴体があります。肩、腕、手、そして腹部まで彫られており、それが数百年のあいだに堆積した土砂に埋もれているだけです。

2010年から2012年にかけての発掘で、この点が広く知られるようになりました。

そして掘り出された背面には、線刻画が施されていました。三日月形の意匠などが確認されています。地上からは決して見えない位置です。

手は腹の前で組まれ、指は長く、へその上で合わさります。

像は歩いた

採石場から島の各地まで、どうやって運んだのか。この問いには実験による答えがあります。

ラパ・ヌイの口承は一貫して、像が歩いたと伝えてきました。長く比喩と解釈されてきた表現です。

2012年、考古学者カール・リポとテリー・ハントのチームが検証を行いました。実際に道ばたに残るモアイの形を正確に縮尺した、重さ4.35トンの複製を作り、三本の縄を取り付けます。

左右から交互に引くと、像は底面の縁を軸にして揺れ、前方へ傾きながら進みました。十八人で、百メートルを四十分で移動させています。

2025年、二人はこの仮説をさらに裏づける研究を発表しました。島の962体の像を調べ、古代の道沿いに残る62体を詳しく分析したものです。道に残された像は、幅の広い底面と、5~15度ほど前へ傾いた形を持っていました。運搬を前提とした形です。古代の道は幅約4.5メートル、断面がわずかにくぼんでおり、歩く像を左右から支えるのに適していました。そして道ばたの像の半数以上が、採石場から2キロ以内に集中していることもわかりました。運ぶ途中で倒れ、壊れ、そのまま置き去りにされた像だと考えられます。

丸太のそりで横倒しに運んだとする説もあり、反論も続いていますが、口承と形と道の痕跡が一つの答えに収束しつつあります。そしてこの研究は、像の運搬のために島の森を使い尽くして文明が崩壊したという、長く語られてきた「環境破壊の物語」にも疑問を投げかけています。名作をめぐる通説が研究によって覆された例は、教科書が印刷された後に判明した、名画についての新発見でも取り上げています。

すべて倒されました

この点は見落とされがちです。

19世紀前半までに、アフの上に立っているモアイは一体もなくなりました。

倒したのはラパ・ヌイの人々自身です。島内の抗争のなかで、敵対する集団の祖先像を倒す行為が繰り返されたと考えられています。多くはうつ伏せに倒され、顔が地面に向いた状態で見つかりました。

したがって現在立っているモアイは、すべて20世紀以降に起こされたものです。

アフ・アキビは1960年、アメリカの考古学者ウィリアム・マロイらが起こしました。アフ・トンガリキは先に述べたとおりです。

見どころ

プカオ。頭上に載る円筒形の赤い石です。帽子ではなく、結い上げた髪を表すと考えられています。プナ・パウという別の採石場の赤色スコリアで作られました。

目。元は白い珊瑚と赤色スコリア、または黒曜石で作られた眼が嵌め込まれていました。像が立てられ、目が入って初めて、祖先の力が宿るとされました。復元された眼を持つのは、アフ・コテリクにある一体だけです。

向き。ほとんどが海に背を向け、集落を見ています。守護の対象は海の向こうではなく、島の人々でした。

例外。アフ・アキビの七体だけが海を向いています。ただしこれも集落の方向を見ているという解釈があります。

頭部の比率。全身のおよそ三分の一から八分の三を頭部が占めます。ポリネシアの信仰において頭部は神聖な部位でした。

作った人たち

個人名は残っていません。

石工は専門の集団を形成し、技術を世代間で継承しました。彼らは共同体から食料を供給される立場にあり、彫刻に専念できました。

道具はトキと呼ばれる玄武岩製の手斧です。金属はありません。ラノ・ララクの凝灰岩は火山灰が固まったもので、比較的柔らかく、水を含むと加工しやすくなります。

像は岩壁に横たわった状態で彫られ、最後に背面を切り離して斜面を滑り下ろし、穴に立てて仕上げを行いました。

ラノ・ララクには未完成のまま残された像が約400体あります。製作が突然止まったことを示しています。

日本では?

日本国内で、公認の複製を見ることができます。宮崎県日南市のサンメッセ日南です。

アフ・トンガリキの修復に尽くした日本の修復委員会の希望に応え、イースター島の長老会は、世界で初めてモアイを島の外で復刻することを許可しました。こうして、修復にも加わった石工の左野勝司氏が、アフ・アキビの七体をもとに、学術的な精密さで彫り上げた像が建てられたのです。島の長老会から正式に許可を得た完全復刻は、世界でここだけとされています。

太平洋を望む丘に並ぶ七体は、海を向いて立つアフ・アキビの像と同じく、日南の海を背景にしています。修復の縁で生まれたこの公園は、日本とラパ・ヌイを結ぶ場所になりました。原作と公認の複製、その関係を考えるうえでは、あなたが見ているのは、どの版?——複数存在する名画たちもあわせてお読みください。

  • JR宮崎駅または宮崎空港から路線バスで、サンメッセ日南バス停下車、徒歩十数分です。車なら宮崎インターチェンジから約40分です。
  • 水曜日が定休日です(祝日の場合は営業)。入園料と営業時間は公式サイトでご確認ください。

遺産と現状

1722年の復活祭の日にオランダ船が到達し、ヨーロッパに知られました。イースター島という名はここから来ています。

島は1888年にチリに併合され、20世紀の大半を通じて住民の権利は制限されていました。

2022年10月、ラノ・ララク周辺で火災が発生し、複数の像が損傷しました。高温で石が割れ、表面が剥落しています。凝灰岩は熱に弱く、修復は困難です。

そして返還の問題があります。大英博物館が所蔵するホア・ハカナナイアは、1868年にイギリス海軍艦トパーズ号の乗員が持ち出したものです。玄武岩製で、背面には鳥人信仰に関わる精緻な浮彫があります。

2018年、ラパ・ヌイの代表団がロンドンを訪れ、返還を要請しました。議論は続いています。

作品が見られる場所

ラパ・ヌイ(イースター島)。チリのサンティアゴから空路約五時間半。世界でもっとも到達しにくい有人島の一つです。

  • ラパ・ヌイ国立公園の入園券が必要です。オンラインでの事前購入をおすすめします。
  • 一部の区域はガイド同伴が義務づけられています。ラノ・ララクとオロンゴがこれに該当します。規則は変更されるため、渡航前に確認してください。
  • 訪問しやすい時期は10月から3月です。
  • 主要な見どころはアフ・トンガリキ、ラノ・ララク、アフ・アキビ、アフ・タハイです。
  • 像に触れること、アフの上に立つことは禁止されています。罰則があります。

大英博物館ではホア・ハカナナイアを見ることができます。背面の彫刻を見るために、像の裏側へ回ってください。

この像の前で最後まで残るのは、向きです。すべて海に背を向けています。彼らが見ていたのは水平線ではなく、目の前にいた人々でした。そして十九世紀までに、その全部が顔を伏せて倒されました。いま立っている像は、すべて誰かがもう一度起こしたものです。

画像: ラノ・ララクのモアイ、ラパ・ヌイ。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.

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