Parthenon by Ictinus and Callicrates, 447 BC

パルテノン神殿 – 直線が一本もない建物

パルテノン神殿にはほとんど直線がありません。基壇は中央がわずかに盛り上がり、柱は中ほどが膨らみ、すべての柱がごくわずかに内側へ傾いています。その傾きを延長すると、建物の上空およそ1.5キロメートルの地点で交わります。隅の柱は他より太く作られています。これらはすべて、人の目に直線として見えるようにするための補正です。完璧に見えるこの建物は、完璧でなく建てられているからこそ完璧に見えます。

基本情報

  • 建築: イクティノスとカリクラテス、彫刻監督フェイディアス
  • 建設: 紀元前447~438年(彫刻装飾は紀元前432年まで)
  • 発注: ペリクレス
  • 材料: ペンテリコン山産大理石
  • 寸法: 基壇で約69.5 × 30.9m、外周のドーリア式列柱46本、柱の高さ約10.4m
  • 芸術運動: 古代美術
  • 所在地: ギリシャ・アテネのアクロポリス。1987年ユネスコ世界遺産登録

誰が費用を出したのか

この建物が民主主義の象徴と呼ばれることを思えば、財源の出所は確認しておく価値があります。

デロス同盟は、ペルシャの再侵攻に備えてギリシャの都市国家が結んだ防衛同盟であり、各都市が分担金を納めていました。紀元前454年、その共同基金がデロスからアテネへ移されます。そしてペリクレスは、その資金で自分の都市を飾り始めました。

当時から批判がありました。アテネが同盟国から取り立てた金で、虚栄心の強い女のように自らを着飾っているという声が上がっています。

パルテノンはアテネの達成であると同時に、アテネが同盟を帝国に変えた時点の記念物でもあります。

もう一点。この建物が通常の意味での神殿だったのかについても議論があります。前面に祭壇がないためです。アテナに犠牲を捧げる大祭壇は旧神殿の側にありました。パルテノンの実質的な機能の一つは国庫の保管でした。

目の錯覚を計算する

この建物のもっとも有名な特徴は、目に見えない部分にあります。

基壇の湾曲。床は平らではありません。中央が盛り上がっており、短辺で約6センチ、長辺ではそれより大きくなります。完全に平らに作ると、中央がたわんで見えるためです。

エンタシス。柱の中ほどがわずかに膨らんでいます。まっすぐに削ると、胴がくびれて見えます。

柱の傾き。すべての柱が建物の内側へ傾いています。垂直に立てると、上部が開いて見えるためです。

隅の柱。他より太く作られています。明るい空を背景に立つと細く見えるためです。

これらの補正はそれぞれ数センチ単位です。それを大理石で実現するには、すべての部材を個別に異なる寸法で削り出す必要があります。規格化された部品ではなく、位置ごとに寸法の違う部材を数千個作ったということです。

彫刻

フリーズ。内側の列柱の上を巡って160メートルにわたって続く帯状の彫刻です。主題は通常、パンアテナイア祭の行列と解釈されます。神々ではなく人間が主役である構成であり、この点が当時としては異例でした。

ここでもう一つ重要な点があります。本来ドーリア式の建物に連続フリーズは入りません。これはイオニア式の要素です。厳格な様式のなかに別の様式を持ち込んだ、意図的な逸脱です。

メトープ。外周四面に配置された浮彫で、神話上の戦いを扱います。ラピテス族とケンタウロス、神々とギガンテス、ギリシャ人とアマゾン。文明と野蛮の対決という構図であり、その下にペルシャ戦争の記憶が敷かれています。

ペディメント。東にはゼウスの頭から生まれるアテナ、西にはアテネの守護神の座を争うアテナとポセイドンが彫られていました。

色。これらの彫刻は彩色されていました。青、赤、金箔の痕跡が残っています。今日、私たちが古典美術の本質と考える白い大理石は、元々あったものがすべて失われたあとの状態です。

内部にはフェイディアスによる高さ約12メートルのアテナ・パルテノス像がありました。金と象牙で作られ、現存しません。

この建物が経験したこと

パルテノンは廃墟として残った遺跡ではなく、二千年以上使われ続けた建物です。ただし毎回、別の神のためにでした。

6世紀にはキリスト教の聖堂に改造され、聖母マリアに捧げられました。1460年にオスマン帝国がアテネを占領したあとはモスクとなり、ミナレットが建てられました。

決定的な破壊は1687年に起きました。ヴェネツィア軍がアテネを攻撃した際、オスマン側はパルテノン内部を火薬庫として使っていました。砲弾が命中し、建物中央部が爆発で吹き飛びます。今日の姿はその日に作られました。

19世紀初頭には、イギリス大使エルギン卿が残っていた彫刻の相当数を取り外してイギリスへ持ち帰りました。

エルギン・マーブルをめぐる現状

パルテノンの彫刻は現在、二つの都市に分かれています。アクロポリス博物館と大英博物館です。

大英博物館は、エルギンがオスマン当局の許可を得て合法的に持ち出したという立場です。ただしその根拠となる文書、すなわちオスマンの勅令はイタリア語訳しか残っておらず、トルコ側はそのような文書が自国の記録にないと述べています。

現在議論されている案は、所有権に触れない相互貸与です。彫刻を長期間アテネへ送り、代わりにギリシャが他の遺物をロンドンへ貸し出す方式です。大英博物館は合意が近いという報道を否定し、議論は初期段階だとしています。障害の一つは1963年に制定された英国の法律で、博物館が所蔵品を処分することを禁じています。

ギリシャ側は長らく単純な貸与を拒んできました。貸与を受け入れることは、所有権がロンドンにあると認めることになるためです。

遺産と影響

18~19世紀の新古典主義建築はパルテノンを直接の手本としました。リンカーン記念堂や大英博物館の正面がその系譜にあります。

ただしその系譜には誤解も一緒に伝わりました。白い大理石と無彩色の抑制というイメージです。先に述べたとおり、元々この建物には色が塗られていました。新古典主義が模倣したのは古代ギリシャではなく、色を失った古代ギリシャでした。

作品が見られる場所

アテネのアクロポリスの丘の上にあります。入場券でエレクテイオン、アテナ・ニケ神殿など周辺の遺構も見られます。

  • 修復工事の状況。2025~26年にかけて足場の相当部分が撤去され、東側正面はほとんど覆われていない状態です。西側と北側では作業が2027年まで続く予定です。写真を目的に行かれる場合は、事前に現在の状態をご確認ください。
  • 時間指定入場が導入され、一日の入場者数に上限があります。オンラインでの事前予約が必要です。
  • 夏の猛暑時には午後に閉鎖されることがあります。近年繰り返し起きていることであり、丘の上には日陰がほとんどありません。夏に行かれるなら開門直後を強くおすすめします。水と帽子は必須です。
  • アクロポリス博物館は丘から300メートルの距離にあります。最上階のパルテノン・ギャラリーは神殿と同じ向き、同じ大きさに設計されており、ガラス越しに実物のパルテノンが見えます。そして大英博物館にある彫刻の位置は、空けたまま展示されています。

ロンドンでは大英博物館のデュヴィーン・ギャラリーに残りの彫刻があります。この作品を完全に見るには二つの都市を訪ねなければならないという事実そのものが、この遺跡の現状を語っています。

この建物の前で最後まで残るのは白さです。ところがその白さは本来の姿ではありません。色が剥げ落ち、彫刻が持ち去られ、中央部が爆発で吹き飛んだあとに残ったものです。私たちが古典の精髄と呼ぶイメージは、相当部分が喪失の結果です。

画像: Parthenon、アテネ・アクロポリス、紀元前447~438年。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.

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