Along the River During the Qingming Festival by Zhang Zeduan, 1120

清明上河図 – この絵の季節は春か秋か

この絵巻の題名にある「清明」の二字が何を意味するのか、中国の学界はいまだに合意していません。清明節という解釈、汴京城内の清明坊という地名という解釈、そして「清く明らかな時代」つまり太平の世を讃える言葉という解釈が並存しています。最後の解釈をとれば、この作品の題名は『川辺に平和が満ちる図』に近づきます。

基本情報

  • 作者: 張択端(生没年不詳。北宋末の宮廷画家と考えられています)
  • 制作時期: 12世紀初頭、北宋・徽宗の時代とする説が有力
  • 技法: 絹本墨画淡彩、手巻
  • 寸法: 縦約24.8cm、横約528cm
  • 画面内の要素: 人物約800人、船二十数隻、そして無数の動物、建物、車、輿、樹木
  • 芸術運動: 宋代絵画
  • 所蔵先: 故宮博物院(北京)

題名と季節をめぐる論争

もっとも広く知られているのは清明節という解釈です。新暦の4月5日ごろ、人々が墓参りをし、春の訪れを楽しむ節句であり、この絵はその儀式ではなく当日の都市の賑わいを描いたものだという説明です。鄭振鐸や徐邦達といった鑑定家がこの見解を支持しました。

ところが1981年、開封の教員だった孔憲易が、この通説に疑問を投げかける論文を発表します。彼が根拠としたのは画面のなかの事物でした。積まれた炭、手にした団扇、石のローラーといったものです。炭を備蓄するのは冬に備える行為であり、団扇は早春の道具ではありません。そこに西瓜や上半身を出した人夫が加わります。彼はこの絵の季節が春ではなく秋であり、「清明」は節気ではなく汴京城内の地名・清明坊を指すと主張しました。

論争は終わっていません。近年では画中の人物の服装と行動から気温を推し量り、季節を推定しようとする研究まで現れています。

九百年近く経った今も、私たちはこの絵がどの日を描いたのか確定できていません。

この作品が忘れられない理由

この絵の主役は王侯でも仙人でもありません。行商人、曲芸師、役者、物乞い、托鉢僧、占い師、医者、宿の主人、塾の師匠、粉挽き、鍛冶屋、大工、石工、そしてあらゆる品級の役人が登場します。約800人がそれぞれ別のことをしています。

城門の外には、酒、穀物、古物、調理器具、弓矢、灯籠、楽器、金銀、装身具、染物、絵画、薬、針を売る店が並びます。これは絵画であると同時に、12世紀の都市経済の目録です。

そしてこの絵は、消える直前の世界を描いています。汴京(開封)は人口百万を超えたともいわれる、当時世界有数の大都市でした。1127年、金の侵攻により北宋はこの都を失い、南へ移ります。以後この絵は、存在しない都市の記録になりました。

見る方法

重要な前提が一つあります。手巻の絵巻物は、本来ガラスケースに全長を広げて見るものではありませんでした。手に持ち、肩幅ほどずつ右から左へ繰りながら見るものです。

ですからこの絵には時間があります。静かな郊外から始まり、驢馬の列が都へ向かい、川辺が次第に賑わい、虹橋で頂点に達し、城門をくぐって市街に入ります。絵画というより音楽に近い構造です。

虹橋の場面。この絵の中心です。大きな船が橋の下を通ろうとしていますが、角度がずれています。船乗りたちが慌てて帆柱を倒し、竿と綱にすがりつき、一人が橋に向けて綱を投げます。橋の上では数十人が欄干から身を乗り出して叫び、手を振っています。静止した画面のなかで数秒が流れています。橋と群衆と川の流れで都市の一瞬をとらえるという発想は、七百年後の江戸で広重が描いた『大はしあたけの夕立』の橋の上の人々にも通じています。

この橋自体も注目に値します。虹橋は水中に柱を一本も立てず、木材を組み合わせて架けたアーチ構造です。宋代以降この工法は途絶え、今日その構造を復元する研究は、相当部分をこの絵に頼っています。絵画が工学の一次史料になっている稀な例です。

終わり方。絵巻はやや唐突に終わります。本来は宮城の区域を描いた部分があり、それが失われたとする見方があります。

張択端について

作者について私たちが知っていることは、驚くほどわずかです。張択端の名がこの絵の作者として伝わるのは、巻末に付された金代の跋文によってだけです。それによれば彼は山東の出身で、若くして都に遊学し絵を学び、建物、船、車、橋、城壁、街路を定規を用いて精密に描く「界画」に長けていたといいます。

生没年も、ほかの作品も、ほかの記録も、何一つ残っていません。この一点だけで中国絵画史に名を残した画家です。

この絵がたどった道

完成した絵巻は、時の皇帝徽宗に献じられたと伝えられます。しかし1127年、北宋を滅ぼした金の手に渡り、以後は民間と宮廷のあいだを転々としました。清朝の宮廷コレクションに入ったのち、1920年代には退位した皇帝溥儀の手で紫禁城の外へ持ち出されます。北京の故宮博物院に戻ったのは、1950年代に入ってからのことでした。

模本と後世

この絵は後世に数えきれないほど模写され、再解釈されてきました。あまりの出来栄えに多くの模本や偽作が生まれ、やがて「清明上河図」は一つのジャンルになったほどです。台北の国立故宮博物院だけでも複数の模本を所蔵しています。

もっとも有名なのは1736年の「清院本」です。陳枚、孫祜、金昆、戴洪、程志道の五人の宮廷画家が共同で制作しました。原本より長く、色彩も華やかで、そして何より描かれている都市が違います。清院本が見せるのは北宋の汴京ではなく、清代の蘇州に近い風景です。同じ題名のもとで、それぞれの時代が自分の都市を描いたわけです。原本と模本、どれを「その作品」と呼ぶべきかという問いについては、あなたが見ているのは、どの版?——複数存在する名画たちでも取り上げています。

2010年の上海万博中国館では、この絵を全長128メートルのデジタルアニメーションとして再現し、大きな話題を呼びました。人物が実際に動き、昼と夜が入れ替わる展示でした。

日本では?

この絵巻が初めて中国の外で公開されたのは、日本でした。

2012年、日中国交正常化40周年を記念して東京国立博物館で開かれた特別展「北京故宮博物院200選」に、北京故宮本の『清明上河図』が出品されたのです。故宮博物院でもほとんど公開されることのない「門外不出」の名画であり、中国絵画史上最高の「神品」とも評される作品でした。展示されたのは会期のうち1月24日までの約三週間だけで、会場には一時200分待ちの行列ができています。

日本では戦後まもなくから、模本を含めてこの絵への関心が高く、研究者たちが繰り返し紹介してきました。その原本が上野にやってきたことは、日本の美術ファンにとって一つの事件だったのです。

作品が見られる場所

原本は北京の故宮博物院にあります。紫禁城の中にあり、地下鉄1号線の天安門東駅から歩いて行けます。

ただし原本はほとんど公開されません。絹に描かれた九百年近い絵巻ですから、展示そのものが損傷要因です。故宮博物院には、貴重な古書画は一度展示したら三年は休ませる(「展一次、睡三年」)という原則があります。とりわけこの絵巻は、近年は西暦の下一桁が5の年にだけ全巻が開かれ、十年に一度しか全容を見られない作品になっています。

前回の全巻公開は2015年の「石渠宝笈特展」で、押し寄せる観客のため、一人が絵の前にとどまれるのは三分間に限られました。そして直近では、故宮博物院の創立100周年を記念して2025年9月30日から12月30日まで、紫禁城の午門展示ホールで開かれた「百年守護——紫禁城から故宮博物院へ」展で、十年ぶりに全巻が公開されています。この慣例どおりなら、次に全巻を見られるのは2030年代半ばになる可能性があります。この絵を目的に北京へ行かれる前に、必ず故宮博物院の公式サイトで展示の有無をご確認ください。

代替手段があります。故宮博物院の公式サイトは超高解像度のデジタル画像を公開しています。画面上で拡大すれば、屋台の看板の文字や人物の手の動きまで見えます。逆説的ですが、この絵を細部まで検分するにはオンラインのほうが実物より適しています。もともと手に持って一区画ずつ見るように作られた絵ですから、画面を左右に送りながら見る方法は、本来の鑑賞法にむしろ近いとも言えます。

台北の国立故宮博物院では、清院本をはじめとする後代の模本を見る機会が比較的多くあります。ただし清院本も海外の展覧会に貸し出されることがあるため、訪問前に展示状況をご確認ください。

この絵の前で最後まで残るのは、規模ではなく騒音です。約800人がそれぞれ話し、売り、積み、押しています。その音は1127年に止み、都市は陥落し、残ったのは、その日が春だったのか秋だったのかも確かでない五メートルの絹です。

画像: 『清明上河図』のうち汴京城門付近 – 張択端、12世紀初頭、故宮博物院(北京)蔵。全巻の一部です。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.

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