月壺(朝鮮白磁)– 柳宗悦と浅川兄弟が見つけたもの
この壺が今日「月壺」と呼ばれ、美術として扱われている背景には、日本人の関わりがあります。民藝運動の柳宗悦、そして朝鮮陶磁の研究に生涯を捧げた浅川伯教・巧の兄弟です。1920年代、彼らは当時日用品と見なされていた朝鮮白磁を収集し、記録し、美術として位置づけました。浅川巧はソウルに埋葬されています。ただしこれは植民地統治下の出来事であり、その評価は韓国において単純ではありません。
基本情報
- 作者: 記録に残っていません。朝鮮王朝の官窯で働いた陶工(사기장)たちの作です
- 制作時期: 17世紀後半から18世紀
- 技法: 白磁。上下二つの鉢形を別々に成形し、接合して焼成します
- 寸法: 大きなものは高さ40cmを超えます。大英博物館の一点は高さ47cmです
- 現存数: 大型の完形品は多くありません
- 芸術運動: 朝鮮美術
- 所蔵: 韓国国立中央博物館のほか、韓国国内の美術館、大英博物館、ケンブリッジのフィッツウィリアム博物館など、世界各地にあります
日本との関わり
朝鮮白磁がいま美術館に並んでいる経緯には、日本人が深く関わっています。
浅川伯教(1884~1964)は1913年に朝鮮へ渡り、教員を務めながら各地の古窯跡を踏査しました。生涯におよそ700か所の窯址を調べたとされます。弟の浅川巧(1891~1931)は林業技師として朝鮮に渡り、『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』を著しました。
彼らを通じて朝鮮陶磁を知った柳宗悦は、1924年に景福宮内に朝鮮民族美術館を開設します。柳が「民藝」という語を作るのは、その直後のことです。
浅川巧は1931年、四十歳で朝鮮の地で没しました。ソウル近郊の忘憂里公園墓地に、いまも墓があります。韓国人が葬儀に加わり、棺を担いだと伝えられています。
この流れは、海の向こうにも届きました。大英博物館は自館の月壺の解説で、20世紀前半に西洋で朝鮮陶磁への理解が深まったのは、柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司といった民藝運動の人々の関心に負うところが大きい、と記しています。
ただし、この経緯は手放しで称賛できるものではありません。彼らの活動は日本統治下で行われ、この時期に膨大な朝鮮の陶磁器が日本へ渡りました。韓国においてこの歴史がどう語られるかは、いまも一様ではありません。
それでも、日用の器として扱われていたものを美術として見る視線が、この時期に形成されたことは事実です。
なぜ二つの半球なのか
この壺の作り方には、避けられない事情があります。
この大きさの器を轆轤で一度に挽こうとすると、粘土が自重で崩れます。そこで陶工たちは、同じ直径の鉢形を上下二つ別々に成形し、それを接合しました。
その結果、胴の中央に接合線が残ります。
そして焼成のとき、器は収縮し、わずかに沈みます。高温のなかで、大きな器が自らの重さに耐えきれず、形が動くのです。焼成そのものが失敗しやすく、割れてしまうことも少なくありませんでした。
したがって完全な球形の月壺は存在しません。すべてわずかに歪んでおり、左右も非対称です。
この歪みを美点として語るのは後世の読み方であり、陶工たちにとっては技術的な限界でした。ただし彼らがそれを隠さず、削って整えもしなかったことは確かです。
白について
朝鮮王朝は儒教を国是とし、装飾を抑えた器を尊びました。
ただしこの白は均質ではありません。釉薬の厚み、窯の中の位置、焼成の状態によって、乳白色から青みを帯びた白、象牙色に近いものまで幅があります。
そして表面は変化します。白磁の釉には細かい貫入が入り、そこに長い年月のうちに使用の痕跡が染み込みます。多くの月壺には、使われていた時間が残っています。
これは美術品として作られたものではありません。食べ物を貯え、ときに花を生けるための器でした。
名前について
「月壺(달항아리)」という呼称は、制作から二百年以上あとに生まれたものです。
画家金煥基と美術史家崔淳雨が広めたと語られることが多く、この説は韓国で広く受け入れられています。ただし誰が最初に使ったかについて、確定した記録はありません。名画や名品の「呼び名」が、作られた時代ではなく後世に与えられた例については、教科書が印刷された後に判明した、名画についての新発見でも取り上げています。
金煥基はこの壺を偏愛し、自作に繰り返し描きました。彼が残した言葉として、白磁の壺を抱いていると月を抱いているようだ、という趣旨のものが伝えられています。
なお、韓国の国宝には長らく番号が付されていましたが、2021年11月に番号制は廃止されました。「国宝第262号」といった表記は現在、正式には使われません。
大英博物館の一点
この主題には、日本の陶芸史につながる後日談があります。
イギリスの陶芸家バーナード・リーチは1935年、二度目の朝鮮訪問の際に、ソウルの骨董店で一点の月壺を購入し、イギリスへ持ち帰りました。リーチは長く日本で暮らし、濱田庄司とともに作陶し、柳宗悦と親交のあった人物です。彼はこの壺を「幸せのかけら」と呼んだと伝えられます。もともとは漬物を貯えるための壺だったと考えられています。
第二次世界大戦のさなか、リーチはこの壺を、ウィーン出身の陶芸家ルーシー・リーに預けました。壺はそのまま数十年にわたり、彼女のロンドンの仕事場に置かれ、彼女の作品とともに写真にも収められています。
1995年に彼女が没した後、この壺は大英博物館に収まりました。高さ47センチ、胴の中央にははっきりとした接合線が走り、肩には窯のなかで付いた灰の跡が残っています。現在は朝鮮半島の美術を紹介する第67室に展示されています。
朝鮮でつくられ、日本の民藝運動の人々の目を経てイギリスへ渡り、二人の陶芸家の手元を通って博物館に入った器です。
見どころ
接合線を探してください。胴の中央付近に、わずかな稜線または段差があります。
正面は決まっていません。左右非対称ですから、回り込んで見ると輪郭が変わります。
底を見てください。高台は小さく、胴の大きさに比して不安定に見えます。
白の幅。同じ器のなかでも、光の当たる面と影の面で色が違います。
汚れ。貫入に入った染みは欠陥ではなく、使われた時間の記録です。
作者について
制作者の名前は伝わっていません。朝鮮王朝の陶工は사기장(沙器匠)と呼ばれ、官窯である分院に属していました。
彼らは身分の低い工人であり、作品に銘を入れることはありませんでした。
分院は現在の京畿道広州に置かれ、王室用の磁器を焼いていました。良質の土と薪を求めて窯場は移動し、その跡が各地に残っています。浅川伯教が踏査したのは、この窯址群です。
作品が見られる場所
ソウル・国立中央博物館。地下鉄4号線および京義中央線の二村駅から徒歩圏です。常設展示は無料で、陶磁関連の展示室で白磁を見ることができます。同じ館には、三国時代の金銅弥勒菩薩半跏思惟像や、月壺と同じ18世紀に描かれた鄭敾の『仁王霽色図』もあります。白磁の静けさと、濡れた岩の重さ。同じ時代の朝鮮が生んだ、正反対の二つの表情です。
日本国内では、大阪市立東洋陶磁美術館。世界有数の東洋陶磁コレクションを持つ美術館で、とくに朝鮮時代の陶磁の充実で知られます。約2年の改修を経て2024年4月12日に再開館し、記念展「シン・東洋陶磁——MOCOコレクション」では、同館の核である「安宅コレクション」と、在日韓国人の収集家・李秉昌が寄贈した「李秉昌コレクション」を中心に、約380件が紹介されました。日本から最も行きやすい朝鮮陶磁の鑑賞先です。月壺を含む白磁の展示状況は展示替えによって変わるため、訪問前に公式サイトでご確認ください。
ロンドン・大英博物館。先に述べたリーチとリーの壺が、第67室にあります。
ケンブリッジ・フィッツウィリアム博物館などにも月壺があります。
いずれの館でも常設展示とは限らないため、事前確認をおすすめします。
この器の前で最後まで残るのは、完璧さではなく妥協です。轆轤で一度に挽けないから二つに分け、焼成で沈むから歪み、使われたから染みています。そのすべてを直さずに残したことが、結果として数百年後に美術になりました。
画像: 白磁壺(月壺)、朝鮮王朝、17~18世紀。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.
