Geumgangjeondo (General View of Mt. Geumgangsan) by Jeong Seon, 1734

金剛全図 – いま行くことのできない山の絵

この絵に描かれた山へ、今日ほとんどの韓国人は行くことができません。金剛山は北朝鮮側にあります。1998年から2008年までは韓国からの観光が行われていましたが、韓国人観光客が北朝鮮兵に射殺された事件を機に中断され、2019年には金正恩が韓国側施設の撤去を指示しました。実在する場所を実際に見て描くという原則から生まれたこの絵は、いまや行けない場所の記録になっています。

基本情報

  • 作者: 鄭敾(チョン・ソン、1676~1759)
  • 制作年: 画中に「甲寅の年の冬に記す」とあることから1734年とされてきましたが、七十代の作とする研究もあり、近年は「18世紀中頃」と表記されることもあります
  • 技法: 紙本水墨淡彩
  • 寸法: 130.8 × 94.5 cm(縦長)
  • 芸術運動: 朝鮮王朝美術
  • 所蔵: 個人蔵。サムスン系のリウム美術館・湖巌美術館で公開されてきました。韓国国立中央博物館の所蔵ではありません

画面は縦に二分されています

この絵を見るとき、最初に気づくべきは左右の違いです。

右半分。白い岩の峰が林立しています。鋭く細い縦の線で描かれ、余白が多く、硬質です。

左半分。丸みを帯びた暗い山塊が続きます。短い点を重ねる筆法で、樹木に覆われ、湿って見えます。

この対比は美学的な工夫であると同時に、地形の記録でもあります。金剛山には、花崗岩が露出した岩の峰と、土に覆われ森の茂る山とが並んでいます。鄭敾は点と線だけで、とがった岩山と森に覆われた土の山とをはっきり描き分けました。

同時に、この二分は硬と柔、陽と陰の構成として読まれてきました。どちらの読み方も排除されません。

そしてこれは、冬の金剛山です。葉を落とし、岩の骨格がむき出しになる冬の金剛山は、「皆骨山(ケゴルサン)」と呼ばれていました。

円のなかに山を収める

もう一つの特徴は輪郭です。山塊全体が円形に収められています。

この視点は、実際にはどこからも得られません。空から見下ろすと同時に、峰を横から見た形でもあります。一万二千峰と称される山のすべてが一目で見渡せるよう、複数の視点を一つの画面に統合した構成です。

金剛山は、鄭敾が生涯の最初から最後までもっとも多く描いた主題でした。彼は何度もこの山を旅し、多くの金剛山図を残しています。しかしこの絵は、その写生をそのまま並べたものではありません。歩いて集めた情報を、一つの俯瞰図として組み立て直したものです。

真景山水は写生ではありません。実在する場所を、実在する特徴に基づいて再構成する方法です。この点は同じ画家の『仁王霽色図』でも同様です。遠く離れたドイツで、フリードリヒが何年もかけて集めたスケッチから実在しない山の風景を組み立てた『霧の海の上の旅人』と並べてみると、東西の画家が「見たもの」をどう組み立て直したかが見えてきます。

画中の詩

画面の上部には詩が記されています。一万二千の峰の姿を誰が描き尽くせようか、という趣旨で始まり、山の気配と骨のような岩について述べたあと、最後にこう結ばれます。

たとえいま足で踏んで隅々まで歩いたとしても、枕もとに置いて心ゆくまで眺めることに、どうして及ぶだろうか。

この詩を鄭敾自身が書いたのか、のちに誰かが書き添えたのかについては、意見が分かれています。いずれにせよ、この一節は、この絵を旅そのものよりもすぐれたものとして讃えています。

三百年後、その言葉は別の意味を持つことになりました。

歴史的背景

18世紀前半の朝鮮は、英祖の治世下で文化的な安定期にありました。実学の思潮が広がり、朝鮮独自のものを朝鮮の目で見るという意識が高まっていきます。

それまで朝鮮の画家たちは、中国の画譜に基づいて、見たことのない中国の名山を描くことが多くありました。理想化された山水であり、特定の場所ではありませんでした。

鄭敾はそれをやめ、朝鮮の実在の山を描きました。

金剛山は古くから仏教の聖地であり、文人たちが憧れた場所でした。一万二千峰と称され、内金剛・外金剛・海金剛に分けられます。この山を実景として描くことは、単なる技法の選択ではなく、朝鮮の風土を主題にしうるという宣言でした。

鄭敾について

鄭敾(1676~1759)はソウルの、仁王山の麓に生まれました。

一点、しばしば誤って伝えられることがあります。彼は宮廷の職業画家ではありませんでした。代々の科挙に通らず没落した両班の家に生まれ、絵の才によって官職に就いた士大夫です。地方の県監などを務め、晩年には高い官位に昇り、死後には漢城判尹(現在のソウル市長にあたる職)の位を追贈されています。

当時、職業画家である画員は中人身分に属し、士大夫が絵を描くこととは区別されていました。鄭敾が朝鮮絵画史で特異な位置を占めるのは、この身分と、職業画家を上回る量の制作を両立させた点にもあります。

彼は八十三歳まで生き、代表作の多くは高齢になってからのものです。

「国宝第217号」という呼び方について

この作品は1984年に韓国の国宝に指定されました。

ただし2021年11月、韓国は国宝の番号制を廃止しました。番号が重要度の序列と誤解されることが問題とされたためです。現在の正式名称は「鄭敾筆 金剛全図」です。

2024年には所管官庁の名称も「文化財庁」から「国家遺産庁」に変わりました。

見どころ

岩の描線。鋭く細い縦の線が密に引かれています。花崗岩が垂直に割れる性質を写したものです。

樹木の点。左半分と谷筋には、短い点が無数に打たれています。個々の木ではなく、森の塊として処理されています。

建物。谷のなかに寺院が点在します。人の営みが山の規模を示す目盛りになっています。

余白。周囲は塗られていません。山だけが白い紙の上に浮いています。

色。ごく淡い彩色が施されていますが、基本は墨です。

日本では?

金剛山は古くから名山として知られていましたが、20世紀の初めまで交通の便はきわめて悪く、外国人の旅行者がわずかに足を伸ばす秘境に近い場所でした。この山の観光と開発が本格的に始まったのは、日本の植民地時代のことです。鉄道や宿泊施設が整えられ、金剛山は多くの人が訪れる観光地になっていきました。

鄭敾がこの絵を描いてからおよそ二百年後のことです。枕もとで眺めるしかなかった山に、人々が鉄道で向かうようになり、それから一世紀もたたないうちに、山はふたたび、ほとんどの人が行くことのできない場所になりました。この絵の前に立つことは、その三百年の距離を測ることでもあります。

作品が見られる場所

この作品は個人蔵で、常設展示されているわけではありません。これまで、ソウル・漢南洞のリウム美術館や、京畿道龍仁の湖巌美術館で公開されてきました。2025年には湖巌美術館で開かれた鄭敾の大規模な回顧展で、『仁王霽色図』とともに展示されています。

  • 紙に描かれた作品のため、展示は期間が限られます。見たい場合は、リウム美術館・湖巌美術館をはじめ、鄭敾の展覧会情報を事前に必ずご確認ください。
  • 国立中央博物館の所蔵品と取り違えられることが多いのでご注意ください。
  • 開館時間、休館日、予約の要否は館によって異なり、変更されることがあります。

ソウルの国立中央博物館には、朝鮮白磁の月壺と金銅弥勒菩薩半跏思惟像があります。朝鮮王朝の世界観を伝える『日月五峰図』とあわせて見ると、同じ朝鮮の「山」が、王権の象徴としても、実景としても描かれたことがわかります。

山そのものについて

金剛山は江原道の北部、現在の北朝鮮側にあります。

1998年、南北の合意により韓国からの観光が始まりました。当初は船で、のちに陸路で、十年間におよそ二百万人が訪れています。離散家族の再会事業もこの地で行われました。

2008年7月、韓国人観光客が立入禁止区域に入ったとして北朝鮮兵に射殺され、事業は停止しました。

2019年、金正恩は現地を視察し、韓国側が建設した施設を撤去するよう指示しています。

現在、韓国からこの山へ行くことはできません。

この絵の前で最後まで残るのは、詩の最後の一行です。枕もとでこの絵を眺めるほうが、足で歩いて回るよりよい。そう書いた人は、絵の力を讃えたのでしょう。三百年後、それは選択ではなく条件になりました。

画像: 金剛全図 – 鄭敾、18世紀、個人蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.

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