ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 – もう一点を買ったのは日本人だった
この絵には、もう一点、ほぼ同じ構図の作品があります。そちらは1990年5月17日、ニューヨークのサザビーズで7,810万ドルで落札されました。買ったのは大昭和製紙の名誉会長・齊藤了英です。その二日前、同じ人物がゴッホの『ガシェ博士の肖像』を8,250万ドルで落札していました。わずか数日で、二点の名画に1億6千万ドルを超える額が投じられたのです。齊藤はのちに、この二点を自分が死んだら棺に入れて一緒に焼いてほしいと発言し、国際的な批判を浴びました。そして本作、オルセー美術館の一点が初めて日本に来たのは、それから26年後のことです。
基本情報
- 作者: ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919)
- 制作年: 1876年
- 技法: 油彩・カンヴァス
- 寸法: 131.5 × 176.5 cm
- 場所: パリ・モンマルトルの野外ダンス場「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」
- 芸術運動: 印象主義
- 所蔵先: オルセー美術館(パリ)
二点あります
この主題には二つの作品が存在します。
オルセー版。131.5 × 176.5 cm。本作です。
もう一点。78 × 114 cm。小さいとはいえ、習作と呼ぶには大きな作品です。
どちらが先に描かれ、どちらが決定版なのかについては、研究者のあいだで見解が分かれています。オルセー版を完成作とし他方を習作と見る説と、その逆の説があります。一つの名画が複数の「版」として存在することの意味については、あなたが見ているのは、どの版?——複数存在する名画たちでも取り上げています。
二点目の来歴は冒頭に述べたとおりです。齊藤了英の「棺に入れて焼く」という発言は、のちに本気ではなかったと釈明されましたが、名画の私物化を象徴する言葉として世界中で報じられました。齊藤は1996年に死去し、作品はその後、私的に売却されたと伝えられています。
以来、この一点は公の場にほとんど姿を見せていません。日本のバブル経済が絶頂にあった時期に、日本人が買い、日本人の言葉によって世界を騒がせた絵は、いまどこにあるのかもはっきりしないまま、表舞台から遠ざかっています。
この作品が忘れられない理由
この画面には中心がありません。
手前で会話する人々、奥で踊る人々、さらに奥の群衆。どこか一点を主役として据えていないため、視線は画面のなかを移動し続けます。
そして支配しているのは木漏れ日です。木々の葉を通した光が、人々の顔や服の上に、青みがかった斑点となって落ちています。
この処理は当時、すんなりとは理解されませんでした。前年の第2回印象派展では、ルノワールが光の斑点を置いた裸婦の肌が、緑や紫の染みのある、腐りかけた肉のようだと酷評されています。人の肌に光の色を置くという試みは、当時の目には病変のようにさえ映ったのです。
誰が描かれているか
この絵の人物たちは、モンマルトルでルノワールの周囲にいた実在の人々です。
手前の縞のドレスの女性。エステルという少女で、その隣のジャンヌの妹です。二人は近所に住む娘たちでした。
テーブルの男たち。ジャーナリストのジョルジュ・リヴィエール、画家のピエール=フラン・ラミとノルベール・グヌット。いずれもルノワールの友人です。
中央で踊る男。キューバ出身の画家ペドロ・ビダル・デ・ソラレス・イ・カルデナス。相手の女性はモデルのマルゴです。
労働者階級の若者たちの集い、と説明されることがありますが、正確ではありません。画家、記者、モデル、そして界隈の娘たち。芸術家の周辺と地元の住民が混ざった場です。
その場で描いたのか
この絵をめぐってよく語られるのは、ルノワールが巨大なカンヴァスを会場まで運んで現地で描いた、という話です。
出典はジョルジュ・リヴィエールです。彼は、コルト通りのアトリエから毎日カンヴァスを運んだと書いています。彼自身が画面に描かれている人物ですから、証言としては重みがあります。
ただし、この大きさの画布を毎日運搬して屋外で制作することの現実性については疑問も出ています。現地で多数の習作を描き、最終的にアトリエで組み上げたとする見方が有力です。
いずれにせよ、この絵が現場の観察に基づいていることは確かです。
見どころ
光の斑点。顔と服に散る青白い点が、この絵の核心です。近づいて見ると、それが筆で置かれた独立した色の粒であることがわかります。
奥行きの処理。手前の人物は輪郭が明確で、奥へ行くほど溶けていきます。写真的な遠近ではなく、目の焦点が合っていない部分の見え方です。
テーブルの上。グラス、瓶、帽子。当時の日曜午後の道具です。
ランプ。画面上部に球形のランプが吊るされています。日が落ちても続く催しでした。
歴史的背景
1876年のパリは、普仏戦争とパリ・コミューンの動乱から回復しつつある時期でした。
モンマルトルは当時まだパリの周縁で、家賃が安く、画家が集まる地区でした。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは古い風車のそばに開かれたダンス場で、日曜ごとに人々でにぎわいました。
この作品は1877年の第3回印象派展に出品されました。印象派はまだ嘲笑される存在でした。
その後、この場所はファン・ゴッホやトゥールーズ=ロートレック、若きピカソらも描く、モンマルトルを象徴する主題になっていきます。そして十年後、パリの市民の日曜日の午後という同じ主題を、スーラはまったく違う方法で描きました。光を細かな点に分解した『グランド・ジャット島の日曜日の午後』です。ルノワールの揺れる木漏れ日と、スーラの静止した点を比べると、印象派の十年がどこへ向かったのかが見えてきます。
ピエール=オーギュスト・ルノワールについて
ルノワール(1841~1919)はリモージュに生まれ、十三歳で磁器の絵付け職人として働き始めました。この経験が、後の肌の描写に影響しているとされます。
パリでモネ、シスレー、バジールと出会い、1874年の第1回印象派展に参加しました。
この絵の数年後、彼は『ボート・パーティーの昼食』を描きます。それが印象派の方法による最後の大作の一つとなり、以後イタリア旅行を経て画風を変えました。
晩年はリウマチで手が変形し、筆を手に固定して描き続けました。1919年に没しています。
この絵がオルセーにある経緯
最初の所有者は画家ギュスターヴ・カイユボットでした。仲間の作品を買い支えていた人物で、『ボート・パーティーの昼食』にも描かれています。
1894年に彼が死去すると、遺言によりコレクションが国家に遺贈されました。ところが国は受け入れを渋り、交渉の末に一部のみを受領します。この作品はその中に含まれました。
リュクサンブール美術館、ルーヴルなどを経て、1986年のオルセー美術館開館とともに現在の場所へ移っています。
日本では?
齊藤了英がもう一点を落札してから26年後の2016年、オルセー版がついに日本へやってきました。東京・六本木の国立新美術館で4月27日から8月22日まで開かれた「オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展」です。
「印象派の最高傑作、初来日」と銘打たれたこの展覧会には、絵画や彫刻、デッサンなど100点を超える作品が並び、『田舎のダンス』と『都会のダンス』も45年ぶりにそろって来日しました。来場者は66万7897人。その年に日本で開かれた美術展のなかで、もっとも多くの人を集めた展覧会となりました。
バブル期の日本で、もう一点は一人の実業家のものとなり、やがて人目から遠ざかりました。四半世紀を経て、もう一方のオルセー版の前には、六十万人を超える人々が並んだのです。
作品が見られる場所
パリのオルセー美術館にあります。
- 開館は火曜~日曜9時30分~18時、木曜は21時45分までが基本です。月曜休館です。時間は変更されることがあるため、公式サイトでご確認ください。
- オンラインでの事前予約を推奨します。開館直後が最も空いています。
- 展示室の配置は変更されるため、訪問前に現在の位置をご確認ください。
- 同館にモネ、ドガ、マネの作品が集まっています。
そして舞台はまだあります。モンマルトルにはムーラン・ド・ラ・ギャレットの名を伝える風車が残り、その名を冠したレストランがあります。オルセーから地下鉄で行くことができます。
この絵の前で最後まで残るのは、青い斑点です。当時の目はそれを病変のようにさえ読みました。ルノワールが描いたのは木の葉を通った日曜の光であり、その光は同じ丘の上に、今も落ちています。
画像: Bal du moulin de la Galette – ピエール=オーギュスト・ルノワール、1876年、オルセー美術館蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.
