Composition with Red, Blue and Yellow by Piet Mondrian, 1930

赤、青、黄のコンポジション – 斜め線一本で決裂した友情

この絵には対角線が一本もありません。それは好みではなく宣言です。1920年代半ば、デ・ステイルをともに立ち上げたテオ・ファン・ドゥースブルフが画面を45度傾け始めたとき、モンドリアンは彼のもとを去りました。彼にとって垂直と水平は様式ではなく、世界の構造についての真実であり、傾いた線は裏切りでした。1930年のこの画面に斜めの線が一本もない理由がここにあります。

基本情報

この作品が忘れられない理由

実物を初めて見た人がもっともよく口にするのは、小さい、という言葉です。一辺46センチの正方形、A2判の紙より小さいものです。ポスターとマグカップとワンピースを通してこのイメージを何百回も見てきた人にとって、この大きさは戸惑うものです。記念碑的な何かを期待して行くと、手を伸ばせば両端に届く画面に出会うことになります。

その小さな画面のなかにあるのは、黒い線と三つの色、そして白い面だけです。モンドリアンは自然の形を消し、この要素だけで現実の根本構造を描けると信じていました。感情を表現しようとした他の抽象画家たちと彼が分かれるのはこの点です。彼が描こうとしたのは自分の内面ではなく、世界の秩序でした。

興味深いのは、この画面が完結していないことです。右上の大きな赤い四角は、四辺のうち二辺だけが黒い線で止められ、残りの二辺はキャンバスの端です。つまりこの四角は、画面の外から切り取られてきたように見えます。格子は額のなかで終わらず、外へ続いています。

歴史的背景

デ・ステイルは1917年にオランダで始まりました。モンドリアン、ファン・ドゥースブルフ、バルト・ファン・デル・レックが中心で、画家だけでなく建築家も参加していました。第一次大戦でオランダが孤立していた状況が、かえってこの集団を結束させました。

モンドリアンは自分の方法を新造形主義と呼びました。垂直線と水平線、三原色、そして白と黒と灰色。この限られた語彙で普遍に到達するという原則です。個別的なものを超えなければ普遍に至らないという彼の考えは、神智学の影響も受けたものでした。

ところが1924年頃、ファン・ドゥースブルフが画面を45度傾けた「反構成」の連作を発表し、これを要素主義と名づけます。モンドリアンにとってこれは原則の毀損でした。彼はデ・ステイルを去り、二人の関係は回復しませんでした。運動をともに作った二人が、線の角度をめぐって決裂したのです。

1930年は世界恐慌がヨーロッパへ波及した年でした。パリはダダとシュルレアリスムが入り混じる場所であり、その騒がしさのなかでモンドリアンは正反対の方向へ進みました。より削り、より厳格になる方向です。

象徴と見どころ

色面の配置。右上を大きな赤い四角が占めます。左下に小さな青い四角、右下の隅に切り取られたような黄色い四角があります。残りはすべて白い面です。三色の大きさはまったく不均等ですが、画面は傾きません。大きな赤の重さを、小さな青と黄が対角方向から支えているからです。左右対称ではなく、力の均衡です。

線の太さ。黒い線の太さがすべて同じではありません。わずかな違いが画面にリズムを作り、どの面が前に出てどの面が後ろに退くかを決めています。

白は背景ではありません。白い面もそれぞれ大きさと位置が計算された一つの要素です。モンドリアンにとって空白は残った場所ではなく、埋めた場所でした。

表面。図版では滑らかに見えますが、実物の黒い線には筆跡がそのまま残っています。彼はこれらの線を定規で引いたのではなく手で描き、何度も消して描き直しました。完成まで数えきれないほど調整を繰り返した痕跡が表面に残っています。

1929年の兄弟作品。この絵は前年に描いた作品の変奏です。線の骨格はほぼ同じで、変わったのは左の縦帯を三つの不均等な四角に分け、そのうち一つを青く塗ったことです。モンドリアンに決まった公式はありませんでした。毎回最初から解き直しています。

ピエト・モンドリアンについて

モンドリアンは1872年、オランダのアメルスフォールトに生まれました。父がデッサンの教師で、彼も最初は印象派風の風景画を描いていました。木と風車と海を描いていた時期の作品が相当数残っています。

1911年にアムステルダムでキュビスムに触れ、翌年パリへ移りました。以後、彼の木の連作は次第に形を失い、線の格子へ収束していきます。自然から出発して抽象に到達した経路が作品として残っている点が彼の特徴です。彼は突然抽象画家になったわけではありません。

1938年にロンドンへ、1940年にニューヨークへ移りました。ニューヨークで彼はジャズと都市の格子に反応し、黒い線を色の点線に変えます。『ブロードウェイ・ブギウギ』(1943年)がその結果です。二十年以上守った原則が、最後に自ら緩んだことになります。1944年、ニューヨークで没しました。

遺産と影響

もっとも直接的な継承は建築と家具に現れました。ヘリット・リートフェルトの赤と青の椅子(1918年)とユトレヒトのシュレーダー邸(1924年)は、この絵画言語を三次元へ移したものです。シュレーダー邸は現在ユネスコ世界遺産です。

ファッションでは1965年、イヴ・サンローランがモンドリアン・ドレスを発表し、この格子を大衆の衣装棚に載せました。グラフィックデザインとデジタルインターフェースのグリッドという概念も同じ系譜にあります。

ただし一点、区別しておくとよいでしょう。今日私たちが「モンドリアン風」と呼ぶものは、たいてい装飾パターンです。モンドリアン本人にとってこれはパターンではなく、世界がどのように構成されているかについての主張でした。彼が友人と決別してまで守ったのも、その主張です。

なお、白い面の扱いを日本の「間」の感覚と重ねて見る人は少なくありません。ただしモンドリアン自身の空白は、神智学と新造形主義の思想から出たものであり、日本美術に由来するものではありません。似て見えるという観察と、影響関係があるという主張は別のものです。

作品が見られる場所

スイス・チューリッヒのクンストハウス・チューリッヒにあります。チューリッヒ中央駅からトラムで10分ほどで、2021年に新館が開館して規模が大きく拡張されました。

休館日と開館時間、料金は変動するため、訪問前に公式サイトでご確認ください。所蔵品の展示構成も変わるため、特定の作品を目的に行かれる場合は併せてご確認いただくのが安全です。

この美術館はノルウェー国外で最大のムンク・コレクションを持ち、ジャコメッティの所蔵でも知られています。モンドリアン一点だけを見て出るには惜しい場所です。鑑賞後は徒歩圏の旧市街とチューリッヒ湖を併せて回るとよいでしょう。

この絵の前で最後まで残るのは、単純さではなく頑固さです。46センチ四方のなかで、モンドリアンは一度も妥協しませんでした。線は必ず垂直か水平であり、色は必ず三つであり、残りは白です。その規則を守るために、彼は自分が作った運動から歩いて出ていきました。

画像: Composition II in Red, Blue and Yellow – ピエト・モンドリアン、1930年、クンストハウス・チューリッヒ蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.

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