着衣のマハ – この絵は「カーテン」だったのか
この絵は「カーテン」だった、という有名な話があります。マヌエル・ゴドイの邸宅で、『着衣のマハ』は『裸のマハ』の前に掛けられ、仕掛けで動かすと、その裏から裸のほうが現れた――なぜゴヤが同じ姿勢を二度描いたのかを、鮮やかに説明してくれる話です。けれども、この仕掛けを伝える同時代の記録は見つかっていません。確かなのは、二枚がともにゴドイのものだったこと、裸のほうが先に描かれたと考えられること、そして二枚が二百年以上、ほとんど離れずに過ごしてきたことです。
基本情報
- 作者: フランシスコ・デ・ゴヤ(1746~1828)
- 制作年: 1800~1807年頃。『裸のマハ』より後に描かれたとする見方が有力です
- 技法: キャンバスに油彩
- 寸法: 95 × 190 cm
- 芸術運動: ロマン主義
- 所蔵先: プラド美術館(マドリード)、1901年収蔵
「カーテン」の話はどこから来たのか
着衣のマハが裸のマハを覆い隠していた、という話は、20世紀にアルバ公爵夫人とゴヤを論じた著作のなかで、二枚の絵の大きさと姿勢がほぼ同じであることを根拠に語られ、広まりました。たしかに、二枚はほとんど同じ寸法で、人物はほぼ同じ位置に横たわっています。一方を他方の前に掛けることは、物理的には可能です。
けれども、ゴドイの邸宅でそうした仕掛けを見たと書き残した同時代の証言はありません。1800年11月にゴドイの私室を訪れた版画家ペドロ・ゴンサレス・デ・セプルベダが日記に記したのは、扉の上に掛けられた「ゴヤの裸のヴィーナス」のことだけでした。そのとき着衣のマハがすでにあったのかどうかも、わかっていません。
話としてあまりによくできているために、事実のように語られてきた――名画にはそうした伝説が少なくありません。こうした例については、教科書が印刷された後に判明した、名画についての新発見でも取り上げています。
この作品が忘れられない理由
まず題名の「マハ」が何かを押さえる必要があります。これは名前でも身分でもありません。18~19世紀マドリードの下層階級の女性を指す言葉で、彼女たち特有の服装と態度で見分けられる層のことです。つまりこの絵の主人公は女神でも貴婦人でもなく、街で見かける人として提示されています。
そして彼女は鑑賞者を正面から見ています。当時この姿勢で横たわる女性はたいていヴィーナスであり、ヴィーナスはたいてい視線をそらすか鏡を見ていました。神話という名分もなく横たわり、その状態で画面の外を見つめる構成は例外的でした。
多くの文章が、この絵はヌードの版より官能的だと述べます。薄い衣が体の線を隠しながら同時に露わにするから、という説明です。ただし描き方を比べると違いがはっきりします。衣服を表すために、ゴヤはこの絵ではヌードの版よりもはるかにゆるやかで速い筆致を使っています。肌の透明な調子と微妙な階調では、ヌードのほうが入念に描かれています。
歴史的背景
18世紀末のスペインは揺れていました。フランス革命の余波が国境を越え、カルロス4世の宮廷は不安定でした。実権を握っていたのは宰相マヌエル・ゴドイです。
『裸のマハ』は1800年にはすでにゴドイの所蔵品でした。彼の私室には、ベラスケスの『鏡のヴィーナス』やティツィアーノのヴィーナスの模写など、裸体画が集められていました。『着衣のマハ』はそれより後に加わったと考えられています。
1808年、ナポレオンの侵攻とともにゴドイは失脚し、財産は押収されます。二枚のマハはサン・フェルナンド王立美術アカデミーに預けられ、1813年、宗教裁判所によって没収されました。翌1814年の目録で、この絵は「マハの装いをした女性」と記されています。「マハ」という呼び名は、ここから定着しました。
1815年3月16日、宗教裁判所はゴヤに出頭を命じます。これらの絵が自分の作品か、誰の依頼で、どのような意図で描いたのかを明らかにせよという要求でした。彼が何と答えたかの記録は残っていません。ただし重い処罰は受けませんでした。
二枚は1836年から再びサン・フェルナンド王立美術アカデミーに置かれ、プラドへ移されたのは1901年です。並べて掛けられるようになったのもそのときからです。
モデルは誰なのか
確定していません。
もっとも有名な説は第13代アルバ公爵夫人マリア・カエターナ・デ・シルバです。ゴヤと彼女のあいだに関係があったという話が長く伝わり、1797年の肖像画で彼女がはめた二つの指輪にそれぞれ「ゴヤ」「アルバ」と刻まれ、指が指す砂に「ただゴヤのみ」と書かれている点が根拠として引かれます。
もう一つの説は、ゴドイの愛人だったペピタ・トゥドです。どちらの説も、確かな根拠はありません。
1945年には、アルバ公爵夫人の遺骸を発掘して身体の比率を比較しようとする試みまで行われました。結論は出ていません。現在では、特定の人物ではなく複数の要素を組み合わせた人物である可能性も併せて開かれています。
象徴と見どころ
視線。彼女はためらわずに画面の外を見ています。この絵でまず突き当たる要素です。
手。両腕を頭の後ろへ回した姿勢です。この動作は体を大きく開いて見せると同時に、くつろぎを示します。防御でも誘惑でもない、判定しにくい姿勢です。
衣装。短い上着、明るいドレス、腰を締める帯。この組み合わせが彼女を「マハ」として識別させる標識です。薄い織物の下に体の輪郭が透けています。
背景と寝具。背景は暗く処理され、人物を押し出します。彼女がもたれるクッションと布の皺は太く速い筆致で処理されており、近くで見ると衣服や肌よりはるかに粗く塗られていることがわかります。
二枚の違い。プラドで並べてご覧になるときは姿勢を比べてみてください。同じポーズに見えますが、体の角度と脚の位置に微細な差があります。後から描かれたほうが、前のものを正確に複製してもいないのです。「カーテン」として完璧に重ねるためだけに描いた絵だったなら、この差は説明しにくいところです。
フランシスコ・デ・ゴヤについて
ゴヤ(1746~1828)はアラゴンのフエンデトードスに生まれました。当初は王立タペストリー工場の下絵を描いて宮廷に入り、その才覚で地位を築きます。
1792年から93年にかけて重病を患い、聴力を失いました。以後、彼の仕事は方向を変えます。『ロス・カプリチョス』、『戦争の惨禍』、そして晩年に自宅の壁に直接描いた『黒い絵』連作へと続く流れです。彼は自分の師は三人だと述べました。ベラスケス、レンブラント、そして自然です。
ロマン主義の画家として分類されますが、その枠に完全には収まりません。近代絵画の扉を開いた人物と評価される理由です。
遺産と影響
もっとも直接的な後裔とされるのがマネです。『オランピア』は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』とともに、ゴヤの『裸のマハ』を大胆に踏まえた作品だと指摘されています。神話の名分なしに横たわる女性が鑑賞者と向き合う構成は、この系譜をたどって19世紀へ続きました。
今日この絵はスペイン文化のアイコンです。ただしその名声には検閲の歴史が付いています。宗教裁判所に没収され、長くアカデミーの限られた部屋に置かれ、1930年には『裸のマハ』を図案にしたスペインの切手が、アメリカで郵便物ごと返送されたと伝えられています。
日本では?
『着衣のマハ』は、日本で二度公開されています。
最初は1971年、東京・上野の国立西洋美術館で開かれたゴヤ展です。このときは『裸のマハ』と対で出品され、二枚が並ぶ姿が大きな話題を呼びました。
二度目は、その40年後です。2011年から2012年にかけて同じ国立西洋美術館で開かれた「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」展で、『着衣のマハ』は展覧会の目玉として40年ぶりに来日しました。ただし今度は、一人での来日でした。『裸のマハ』は来ていません。
かつて二枚一組で、ときに表と裏の関係で語られてきた絵のうち、日本の観客の前に二度立ったのは着衣のほうでした。「隠す側」とされてきた絵が、ここでは主役だったのです。
作品が見られる場所
マドリードのプラド美術館にあります。『裸のマハ』と並べて掛けられており、二枚を一緒に見ることがこの作品を理解する最良の方法です。
- 開館は月曜~土曜10時~20時、日曜・祝日10時~19時が基本です。プラドは月曜も開いています。
- 閉館前の二時間ほどは無料入場時間帯ですが、その分混雑します。ゆっくり見るなら開館直後がよいでしょう。
- 入場料は大人15ユーロ前後、18歳未満は無料です。料金と展示室の配置は変更されるため、事前に公式サイトでご確認ください。
同じ美術館にゴヤの『カルロス4世の家族』、『1808年5月3日』、そして『黒い絵』連作があります。マハから黒い絵へ至る動線を取ると、一人の画家のなかで何が変わっていったのかが見えてきます。ベラスケスの『ラス・メニーナス』も同じ建物にあります。
この絵の前で最後まで残るのは、官能ではなく伝説です。別の絵を隠すために描かれた、という話はあまりに魅力的で、二百年のあいだ事実のように語られてきました。そしていま二枚は並んで掛けられ、隠す側と隠される側の区別は、伝説のなかにしか残っていません。
画像: La maja vestida – フランシスコ・デ・ゴヤ、1800~1807年頃、プラド美術館蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.
