最後の晩餐 – イエスの足は1652年に消えた
この絵でイエスの足を見ることはできません。1652年、修道士たちがこの壁に厨房へ通じる扉を開けたためです。切り取られた開口部が画面下部中央を奪い、イエスと数名の使徒の足が失われました。それ以来、誰も見ていません。
基本情報
- 作者: レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)
- 制作年: 1495年頃~1498年
- 技法: 乾いた漆喰壁にテンペラと油彩。フレスコではありません
- 寸法: 460 × 880 cm
- 芸術運動: ルネサンス
- 所在地: サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院食堂(ミラノ)。ユネスコ世界遺産
この作品が忘れられない理由
レオナルドが選んだのは出来事ではなく、反応です。イエスが「あなたがたのうち一人が私を裏切る」と告げた直後、十二人がそれぞれ違う仕方で反応する数秒間です。
使徒たちは三人ずつ四つの群に分かれています。驚いて身を反らす者、立ち上がりかける者、両手を広げて自分ではないと訴える者、隣の者に問い返す者。手と体が波のようにつながり、画面全体にうねりが生まれます。
中世の絵画でこの場面は静的に描かれ、ユダはたいてい食卓の反対側に一人だけ置かれて識別されていました。レオナルドはユダを他の使徒のあいだに紛れ込ませました。探し出さなければならない構成です。
ユダの見つけ方
イエスから見て左側、鑑賞者から見て左から二つめの群の先頭に座っている人物です。目印が三つあります。
金袋。右手に小さな袋を握っています。銀貨三十枚です。
後ろに引いた体。他の使徒がイエスのほうへ身を乗り出すなか、彼だけが後退して影に沈みます。顔に光が当たっていない唯一の人物です。
倒れた塩入れ。彼の肘の前で塩がこぼれています。塩をこぼすことは古くから不吉の徴でした。
さらにもう一つあります。ユダの左手が皿に向かって伸びており、イエスの右手も同じ方向へ伸びています。「私と一緒に鉢に手を浸す者が私を裏切る」という福音書の一節が、そのまま描かれているのです。
壁に残る釘の跡
この画面の遠近法は消失点が一つです。天井の格間、壁のタペストリー、窓の線がすべて一点に集まります。
その点はイエスの右のこめかみです。ルネサンス期の解剖学が、諸感覚の集まる座——共通感覚の位置——と考えていた場所です。
そしてレオナルドは、そこに実際に釘を打ちました。釘に糸を結び、放射状に引きながら、食卓の両端、床の線、天井格子の縦材の位置を割り出したのです。
その釘穴は今も壁に残っています。1978年に始まった修復の過程で発見されました。五百年前の画家がどこを基準に立てたのかが、物理的に残っているわけです。
光の方向も計算されています。画面内の光源の方向は、実際の食堂の左側の窓から入る光の方向と一致します。壁画が部屋の延長に見えるようにするための仕掛けです。
この絵がたどった災難
レオナルドはフレスコを使いませんでした。フレスコは濡れた漆喰の上に素早く描かねばならず、修正がききません。彼はゆっくり作業し、描き直すことを望みました。そのため乾いた壁にテンペラと油彩を重ねる方法を選びます。表現力は得ましたが、耐久性を失いました。
剥落は彼の存命中に始まっています。16世紀初頭にはすでに損傷が記録されていました。
- 1499年 — 完成の翌年、食堂が浸水しました。
- 1652年 — 扉を開けたことで、イエスと使徒たちの足が失われました。
- 1726年 — ミケランジェロ・ベロッティが油絵具で欠損部を埋め、全体にニスを塗りました。以後二百年、加筆が繰り返されます。
- 1796年 — ナポレオン軍がこの食堂を厩舎と干し草置き場として使用しました。兵士が使徒の顔に物を投げつけたという記録があります。
- 1800年 — 洪水で食堂に水が二週間近く溜まり、壁一面に緑の黴が生えました。
- 1847年 — あるイギリス人著述家は、この作品はもう人の目で見ることはできず、大部分は永遠に失われたと書きました。ヘンリー・ジェイムズは「世界でもっとも悲しい美術品」と呼んでいます。
- 1943年8月15日の夜 — 連合軍の爆撃で食堂の天井と東壁が崩れました。この壁だけが残りました。開戦初期に関係者が土嚢で覆っていたためです。当時の写真には、瓦礫のなかに一枚だけ立つ壁と、その上の絵が写っています。崩れた部分は1947年に復旧されました。
21年の修復
1978年から1999年5月28日まで、ピニン・ブランビッラ・バルチロンが率いる修復作業が行われました。38,000時間が費やされています。
方法は、和紙に溶剤を含ませて表面に当てるというものでした。そうして数百年分のニスと加筆を一層ずつ剥がしていきます。損傷が激しく判読できない箇所は、水彩で淡く補われました。原作のふりをしないためです。
結果は論争を呼びました。今日残っているレオナルド本人の絵具層は、全体の約42パーセントと推定されています。そして長らくレオナルドのものと考えられていた印象的な細部の多くが、後世の加筆であったことが判明しました。
実物は図版よりはるかに淡く、静かです。この点は事前に知っておかれるとよいでしょう。印刷物で見慣れた鮮明な画面を期待すると、落胆することがあります。
レオナルド・ダ・ヴィンチについて
レオナルド(1452~1519)はトスカーナのヴィンチ村近郊に生まれ、フィレンツェのヴェロッキオ工房で修業しました。1482年頃ミラノに移り、ルドヴィコ・スフォルツァのもとで十七年を過ごします。この壁画はその時期の作です。
1499年、フランス軍のミラノ占領により彼は都市を去りました。『モナ・リザ』に着手したのはその後、1503年頃のフィレンツェでのことです。二つの作品は異なる時期、異なる都市の産物です。
彼が完成させた絵画は二十点に満たないとされます。この作品についても、何か月も筆を執らずにいたかと思うとある日現れて数回だけ塗って帰った、という記録が残っています。
遺産と影響
この壁画は西洋絵画における群像構成の基準となりました。ラファエロの『アテナイの学堂』が多数の人物を群に分けて配置する方法も、この系譜の上にあります。
大衆文化でもこの構図は引用され続けています。ダリとウォーホルが描き直し、映画と広告とミームが繰り返し借用しています。ダン・ブラウンの小説がこの作品への関心を再燃させましたが、その小説が提示した解釈は美術史学界では受け入れられていません。
作品が見られる場所
ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院、旧食堂にあります。壁画なので移動できず、五百年間同じ場所にあります。
- 事前予約が絶対に必要です。公式予約窓口はvivaticketです。繁忙期は二、三か月前に売り切れます。
- 一回の入場人数は25名前後、鑑賞時間は15分です。湿度と温度を保つための措置です。
- 入室前に密閉された通路をいくつか通り、空気を入れ替えます。遅刻すると入場できません。
- 向かいの壁にはジョヴァンニ・ドナート・ダ・モントルファーノの『磔刑』があります。大半の来館者は背を向けたまま気づきません。15分のうち2分は振り返ってみてください。
近くにミラノ大聖堂とブレラ絵画館があります。
この絵の前で五百年という時間を実感させるのは、構図でも表情でもなく欠落です。足がなく、絵具の半分以上が失われ、画面の相当部分は修復家が埋めた水彩です。それでもこの壁は爆撃を生き延び、イエスのこめかみには画家が打った釘の跡が残っています。
画像: Il Cenacolo – レオナルド・ダ・ヴィンチ、1495~1498年頃、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ(ミラノ)。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.
