Mona Lisa by Leonardo da Vinci, 1503

モナ・リザ – モデルの正体は2005年に確定した

この絵のモデルが誰かという問題は、二十年前に決着がついています。2005年、ハイデルベルク大学図書館で初期刊本を整理していたアルミン・シュレヒターが、1477年刊のキケロの本の余白に手書きの書き込みを発見しました。書いたのはフィレンツェ政庁の書記官アゴスティーノ・ヴェスプッチ、日付は1503年10月。そこにはレオナルドが今まさにリザ・デル・ジョコンドの肖像を制作中であると記されていました。

基本情報

モデルは誰かという問題

ヴァザーリは1550年、レオナルドの死から三十一年後に書いた伝記のなかで、レオナルドがフランチェスコ・デル・ジョコンドのために妻モナ・リザの肖像を描いたと記しました。「モナ」は名前ではなく、マドンナの短縮形で「~夫人」にあたる敬称です。

しかしヴァザーリの記述は不正確なことも多く、長らく決定的な証拠を欠いていました。

それを終わらせたのが、先に述べたヴェスプッチの書き込みです。発見は2005年、一般に公表されたのは2008年でした。彼はレオナルドを古代ギリシャの画家アペレスになぞらえ、両者とも頭部と肩を先に精密に仕上げてから残りに進むと書き、その例としてリザ・デル・ジョコンドの肖像を挙げています。

ルーヴル美術館の学芸員ヴァンサン・ドリューヴァンはこの発見について、1503年にレオナルドがリザ・デル・ジョコンドというフィレンツェの女性の肖像を描いていたことに、いまや疑いの余地はないという趣旨を述べています。

この書き込みは、制作年を1503年と確定させる根拠にもなっています。じつは、長く定説とされてきたことが近年の調査で覆された例は、この絵にかぎりません。教科書が印刷された後に判明した、名画についての新発見も、あわせて読むと面白いはずです。

この作品が忘れられない理由

まず、実物の小ささです。77 × 53 cm。想像より小さいと感じる人がほとんどです。それでも専用の展示室には毎日数千人が押し寄せます。

そして表情です。微笑んでいるのか、それとも別の何かなのか、見る角度と光の当たり方で印象が変わります。この不安定さは技法から生まれています。

スフマート。輪郭線を引かず、色を煙のように溶け合わせる技法です。レオナルドは口の端と目の周りにあえて明確な境界を作りませんでした。人間の視覚は、中心視で見るときと周辺視で見るときで、その部分を違うように処理します。そのため視線を動かすたびに表情が変わって見えるのです。

眉。この絵に眉がないことはよく知られています。2007年、フランスの技術者パスカル・コットが超高解像度スキャンを行い、眉の位置に一本の筆致の痕跡を検出しました。眉は描かれており、後に失われたと考えられます。過去の洗浄が原因である可能性があります。

背景。女性の左右で地平線の高さが揃っていません。この不一致が空間に落ち着かない広がりを与えます。蛇行する川、岩山、霞む遠景は、実在の風景ではありません。

手。重ねられた両手は、当時の肖像画としては例外的に丁寧に描かれています。レオナルドの解剖学研究がここに出ています。

1911年の盗難

この絵が世界一有名になった経緯は、絵そのものよりも一つの事件に負っています。

1911年8月21日、絵はルーヴルから消えました。犯人はヴィンチェンツォ・ペルージャ、イタリア人の職人です。彼はかつてこの美術館で、絵画の保護ガラスを取り付ける仕事をしていました。館内の構造を知っていたのです。

捜査は迷走しました。詩人ギヨーム・アポリネールが逮捕され、その関係でパブロ・ピカソも聴取を受けています。二人とも釈放されました。

そして奇妙なことが起きます。美術館が再開すると、人々が絵のなくなった壁を見るために行列を作ったのです。空白の壁が連日報道され、絵の複製が新聞と絵葉書で世界中に流れました。この絵が大衆的なアイコンになったのは、この二年間です。

ペルージャは絵をパリの自室に隠していました。1913年、フィレンツェでウフィツィ美術館に売却を試みたところで逮捕されます。動機について彼は、この絵はイタリアに帰るべきだと述べました。

防弾ガラスの理由

この作品は何度も攻撃を受けてきました。1956年には二度、酸をかけられ、石を投げつけられて左肘の部分の絵具が欠けています。現在の防弾ガラスは、こうした経緯の結果です。

近年も攻撃は続いています。2022年には来館者がケーキをガラスに塗りつけ、2024年1月には環境活動家がスープを浴びせました。いずれもガラスに守られ、絵そのものは無事でした。

なお、この《モナ・リザ》にはもう一点、ほぼ同時期に工房で描かれた「もう一つのモナ・リザ」がマドリードのプラド美術館に存在します。名画がなぜ複数存在するのかについては、あなたが見ているのは、どの版?——複数存在する名画たちで詳しく解説しています。

日本では?

1974年、『モナ・リザ』は東京国立博物館で公開されました。会期は4月20日から6月10日までのわずか五十日間。そのあいだに約150万人が上野に詰めかけ、日本で単館開催された絵画展として、今も破られていない最多入場者数を記録しています。展覧会の実行委員長は、時の首相・田中角栄でした。この絵がフランスの外に出たのは、これが最後になります。

しかしこの展覧会には、もう一つの歴史があります。混雑による事故を防ぐため、主催者はあらかじめ、介助を必要とする障害者、高齢者、付き添いのない未就学児、乳幼児連れの人の入場を「お断り」していたのです。

開幕初日の4月20日、一人の女性が展示ケースに赤いスプレーを吹きつけました。「身障者を締め出すな」と叫びながら。彼女は当時25歳の米津知子。幼いころのポリオの後遺症で右足に障害があり、ウーマン・リブと障害者運動に関わっていました。絵はガラスケースに守られ、損傷はありませんでした。

この「モナ・リザ・スプレー事件」は、日本の障害者運動史のなかで、今も語り継がれる出来事になっています。世界でもっとも有名な絵の前で問われたのは、絵を見る権利が誰にあるのか、ということでした。

その十年前の1964年には、同じルーヴルから『ミロのヴィーナス』も来日し、170万人を超える人々を集めています。ルーヴルの二つの至宝が、昭和の日本に「名画を見るために並ぶ」という文化を根づかせました。

なぜフランスにあるのか

レオナルドはこの絵を依頼主に渡しませんでした。手元に置き続け、1516年にフランス王フランソワ1世の招きでアンボワーズへ移る際も持って行きました。

その後の経緯には不明な点があります。フランソワ1世がレオナルド本人から購入したとする説と、レオナルドの死後に弟子サライを介して入手したとする説があります。サライの遺産目録には「ラ・ジョコンダ」と呼ばれる絵が記載されています。

いずれにせよ作品はフランス王室のものとなり、フランス革命を経てルーヴル美術館の所蔵となりました。

レオナルド・ダ・ヴィンチについて

レオナルド(1452~1519)はトスカーナのヴィンチ村近郊に生まれ、フィレンツェのヴェロッキオ工房で修業しました。1482年頃ミラノに移り、そこで『最後の晩餐』を描いています。

1499年にミラノを離れ、フィレンツェに戻った時期にこの肖像に着手しました。二つの代表作は、異なる時期の異なる都市の産物です。

晩年はフランスで過ごし、1519年にアンボワーズ近郊のクロ・リュセ城で没しました。

完成させた絵画は二十点に満たないとされます。手稿には飛行機械、解剖図、水力学の研究が残り、絵画は彼の活動の一部にすぎませんでした。

遺産と影響

スフマートはラファエロをはじめとする後続の画家に受け継がれ、西洋絵画の標準的な技法となりました。ラファエロは『アテナイの学堂』のなかで、哲学者プラトンにレオナルドの顔を与えたとも言われています。

20世紀にはこの絵自体が素材になります。マルセル・デュシャンは1919年、複製に口ひげを描き加えた『L.H.O.O.Q.』を発表しました。アンディ・ウォーホルはシルクスクリーンで反復しました。パロディの数は数えきれません。

作品が見られる場所

ルーヴル美術館ドゥノン翼、711室(サル・デ・ゼタ)にあります。防弾ガラスのケースに収められ、柵で距離が取られているため、実物はかなり遠く感じられます。

  • 火曜休館です。水曜と金曜は夜間開館があります。開館時間は変更されることがあるため、公式サイトでご確認ください。
  • 夜間開館の時間帯と開館直後が比較的空いています。
  • 2026年1月14日から、欧州経済領域(EEA)外からの来館者の入場料が32ユーロに引き上げられました。日本から行かれる場合はこれに該当します。
  • オンラインでの事前予約が事実上必須です。
  • この状況は今後変わります。ルーヴルの大規模改修計画「ルーヴル・ヌーヴェル・ルネサンス」により、この作品は2031年をめどに、中庭クール・カレの地下に新設される専用の展示室へ移される予定です。専用の入口と別料金のチケットが設けられる計画で、新しい正面入口も東側の列柱廊に作られます。訪問前に公式サイトで最新の状況をご確認ください。

同じ美術館にレオナルドの『岩窟の聖母』『洗礼者ヨハネ』、そして『ミロのヴィーナス』と『サモトラケのニケ』、さらにドラクロワの『民衆を導く自由の女神』があります。

一つ助言があります。この絵の前は常に人だかりで、まともに見られる時間は数十秒です。それを前提に行かれるほうがよいでしょう。同じドゥノン翼には、はるかに空いていて、はるかに大きく、同じくらい重要な作品がいくつもあります。混雑のなかで名画と向き合うとき、脳がどう反応するのかについては、名画は脳に何をするのかでも触れています。

この絵の前で最後まで残るのは、微笑みではなく落差です。世界でもっとも有名な絵は、新聞を広げたほどの大きさの一枚の板であり、二年間行方不明だったことでその地位を得ました。人々が最初に殺到したのは、絵ではなく、絵のなくなった壁でした。

画像: La Gioconda – レオナルド・ダ・ヴィンチ、1503年頃、ルーヴル美術館蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.

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