モナ・リザ – モデルの正体は2005年に確定した
この絵のモデルが誰かという問題は、二十年前に決着がついています。2005年、ハイデルベルク大学図書館で初期刊本を整理していたアルミン・シュレヒターが、1477年刊のキケロの本の余白に手書きの書き込みを発見しました。書いたのはフィレンツェ政庁の書記官アゴスティーノ・ヴェスプッチ、日付は1503年10月。そこにはレオナルドが今まさにリザ・デル・ジョコンドの肖像を制作中であると記されていました。
基本情報
- 作者: レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)
- 制作: 1503年頃着手。その後も手を加え続けたとされます
- 技法: ポプラ材の板に油彩
- 寸法: 77 × 53 cm
- モデル: リザ・デル・ジョコンド(旧姓ゲラルディーニ)
- 芸術運動: ルネサンス
- 所蔵先: ルーヴル美術館(パリ)、ドゥノン翼711室
モデルは誰かという問題
ヴァザーリは1550年、レオナルドの死から三十一年後に書いた伝記のなかで、レオナルドがフランチェスコ・デル・ジョコンドのために妻モナ・リザの肖像を描いたと記しました。「モナ」は名前ではなく、マドンナの短縮形で「~夫人」にあたる敬称です。
しかしヴァザーリの記述は不正確なことも多く、長らく決定的な証拠を欠いていました。
それを終わらせたのが、先に述べたヴェスプッチの書き込みです。彼はレオナルドを古代ギリシャの画家アペレスになぞらえ、両者とも頭部と肩を先に精密に仕上げてから残りに進むと書き、その例としてリザ・デル・ジョコンドの肖像を挙げています。
ルーヴル美術館のヴァンサン・ドリューヴァンはこの発見についてこう述べました。1503年にレオナルドがリザ・デル・ジョコンドというフィレンツェの女性の肖像を描いていた、これについて我々はいま確信を持っている、と。
この書き込みは、制作年を1503年と確定させる根拠にもなっています。
この作品が忘れられない理由
まず、実物の小ささです。77 × 53 cm。想像より小さいと感じる人がほとんどです。それでも専用の展示室には毎日数千人が押し寄せます。
そして表情です。微笑んでいるのか、それとも別の何かなのか、見る角度と光の当たり方で印象が変わります。この不安定さは技法から生まれています。
スフマート。輪郭線を引かず、色を煙のように溶け合わせる技法です。レオナルドは口の端と目の周りにあえて明確な境界を作りませんでした。人間の視覚は、中心視で見るときと周辺視で見るときで、その部分を違うように処理します。そのため視線を動かすたびに表情が変わって見えるのです。
眉。この絵に眉がないことはよく知られています。2007年、パスカル・コットが超高解像度スキャンを行い、眉の位置に一本の筆致の痕跡を検出しました。眉は描かれており、後に失われたと考えられます。過去の洗浄が原因である可能性があります。
背景。女性の左右で地平線の高さが揃っていません。この不一致が空間に落ち着かない広がりを与えます。蛇行する川、岩山、霞む遠景は、実在の風景ではありません。
手。重ねられた両手は、当時の肖像画としては例外的に丁寧に描かれています。レオナルドの解剖学研究がここに出ています。
1911年の盗難
この絵が世界一有名になった経緯は、絵そのものよりも一つの事件に負っています。
1911年8月21日、絵はルーヴルから消えました。犯人はヴィンチェンツォ・ペルージャ、イタリア人の職人です。彼はかつてこの美術館で、絵画の保護ガラスを取り付ける仕事をしていました。館内の構造を知っていたのです。
捜査は迷走しました。詩人ギヨーム・アポリネールが逮捕され、その関係でパブロ・ピカソも聴取を受けています。二人とも釈放されました。
そして奇妙なことが起きます。美術館が再開すると、人々が絵のなくなった壁を見るために行列を作ったのです。空白の壁が連日報道され、絵の複製が新聞と絵葉書で世界中に流れました。この絵が大衆的なアイコンになったのは、この二年間です。
ペルージャは絵をパリの自室に隠していました。1913年、フィレンツェでウフィツィ美術館に売却を試みたところで逮捕されます。動機について彼は、この絵はイタリアに帰るべきだと述べました。
日本で起きたこと
1974年、『モナ・リザ』は東京国立博物館で公開されました。
その会期中、一人の障害のある女性が、美術館が障害者の観覧に配慮していないことへの抗議として、絵に赤いスプレーを吹きかけました。絵はすでにガラスケースに入っており、損傷はありませんでした。
この絵がフランス国外で受けた被害としては、ほぼ唯一の事例です。
ちなみにこの作品は、1956年にも二度の被害を受けています。酸をかけられ、石を投げつけられて左肘の部分の絵具が欠けました。現在の防弾ガラスはこれらの経緯の結果です。
なぜフランスにあるのか
レオナルドはこの絵を依頼主に渡しませんでした。手元に置き続け、1516年にフランス王フランソワ1世の招きでアンボワーズへ移る際も持って行きました。
その後の経緯には不明な点があります。フランソワ1世がレオナルド本人から購入したとする説と、レオナルドの死後に弟子サライを介して入手したとする説があります。サライの遺産目録には「ラ・ジョコンダ」と呼ばれる絵が記載されています。
いずれにせよ作品はフランス王室のものとなり、フランス革命を経てルーヴル美術館の所蔵となりました。
レオナルド・ダ・ヴィンチについて
レオナルド(1452~1519)はトスカーナのヴィンチ村近郊に生まれ、フィレンツェのヴェロッキオ工房で修業しました。1482年頃ミラノに移り、そこで『最後の晩餐』を描いています。
1499年にミラノを離れ、フィレンツェに戻った時期にこの肖像に着手しました。二つの代表作は、異なる時期の異なる都市の産物です。
晩年はフランスで過ごし、1519年にアンボワーズ近郊のクロ・リュセ城で没しました。
完成させた絵画は二十点に満たないとされます。手稿には飛行機械、解剖図、水力学の研究が残り、絵画は彼の活動の一部にすぎませんでした。
遺産と影響
スフマートはラファエロをはじめとする後続の画家に受け継がれ、西洋絵画の標準的な技法となりました。
20世紀にはこの絵自体が素材になります。マルセル・デュシャンは1919年、複製に口ひげを描き加えた『L.H.O.O.Q.』を発表しました。アンディ・ウォーホルはシルクスクリーンで反復しました。パロディの数は数えきれません。
作品が見られる場所
ルーヴル美術館ドゥノン翼、711室(サル・デ・ゼタ)にあります。防弾ガラスのケースに収められ、柵で距離が取られているため、実物はかなり遠く感じられます。
- 開館は月・木・土・日が9時~18時、水・金が9時~21時45分。火曜休館です。
- 水曜と金曜の夜間が比較的空いています。開館直後も有効です。
- 2026年1月から、EU域外からの来館者の入場料が引き上げられました。日本から行かれる場合はこれに該当します。
- オンラインでの事前予約が事実上必須です。
- この状況は今後変わります。ルーヴルの大規模改修計画により、この作品を専用の展示室に移し、別の入口から入場させる構想が進んでいます。訪問前に公式サイトで最新の状況をご確認ください。
同じ美術館にレオナルドの『岩窟の聖母』『洗礼者ヨハネ』、そして『ミロのヴィーナス』と『サモトラケのニケ』があります。
一つ助言があります。この絵の前は常に人だかりで、まともに見られる時間は数十秒です。それを前提に行かれるほうがよいでしょう。同じドゥノン翼には、はるかに空いていて、はるかに大きく、同じくらい重要な作品がいくつもあります。
この絵の前で最後まで残るのは、微笑みではなく落差です。世界でもっとも有名な絵は、A3の紙ほどの板であり、二年間行方不明だったことでその地位を得ました。人々が最初に殺到したのは、絵ではなく、絵のなくなった壁でした。
画像: La Gioconda – レオナルド・ダ・ヴィンチ、1503年頃、ルーヴル美術館蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.
