我が子を喰らうサトゥルヌス – 今見えているのは描き直された絵
いま見えているこの絵は、ゴヤが描いたものと同じではありません。1874年、壁から剥がしてカンヴァスに移す作業が行われた際、修復家サルバドール・マルティネス・クベルスが広い範囲を描き直しました。作業前に撮影されたジャン・ロランの写真が残っており、現状と比較できます。そこにはいま存在しない描写が写っています。サトゥルヌスは勃起した状態で描かれていたように見えるのです。
基本情報
- 作者: フランシスコ・デ・ゴヤ(1746~1828)とされます
- 制作年: 1820~1823年頃
- 技法: もと壁画(漆喰壁に油彩)。1874年以降にカンヴァスへ移設
- 寸法: 143.5 × 81.4 cm
- 元の場所: マドリード郊外「聾者の家」一階の食堂
- 芸術運動: ロマン主義
- 所蔵先: プラド美術館(マドリード)、1881年寄贈
食堂に掛かっていました
この絵が描かれた場所は、居間でも書斎でもありません。食事をする部屋です。
ゴヤは1819年にマドリード郊外の農家を買いました。前の所有者が耳の不自由な人だったことから「聾者の家(キンタ・デル・ソルド)」と呼ばれていた建物です。ゴヤ自身もすでに聴力を失っていました。
彼はこの家に手を入れ、二つの部屋の漆喰壁に、直接、十四点の絵を描きます。誰かに見せるためではありません。注文でも、売り物でもありませんでした。暗い色調から、のちに「黒い絵」と呼ばれる連作です。
一階の食堂の壁には、この『サトゥルヌス』と、『ホロフェルネスの首を斬るユディット』が掛かっていました。食べる部屋に、食べる絵と殺す絵が置かれていたことになります。
なお、これら十四点にゴヤは題名を付けていません。現在の呼称は、彼の死後に友人の画家アントニオ・ブルガダが作成した目録によるものです。
1874年に何が起きたか
ゴヤは1824年にフランスへ移り、1828年にボルドーで没しました。家は人手に渡ります。
1873年、ベルギーの銀行家フレデリック・エミール・デルランジェ男爵がこの家を購入しました。彼の狙いは、壁画をカンヴァスに移して1878年のパリ万国博覧会で売却することでした。
転写作業を担当したのが、プラド美術館の修復家サルバドール・マルティネス・クベルスです。壁の漆喰ごと剥がし、カンヴァスに貼り付ける作業でした。
この作業は損傷を伴います。そして彼は失われた部分を補い、同時に一部を描き変えました。
幸い、作業前に写真家ジャン・ロランが壁の状態を撮影しています。その記録と現状を比べると、輪郭、明暗、細部に相違が確認できます。
冒頭に挙げた点はその一つです。ロランの写真には、現在の画面にはない描写が写っているように見えます。当時の感覚では展示に耐えないと判断されたのでしょう。いま私たちが目にしている名画が、画家本人の手だけでできているとは限らない——こうした例は、教科書が印刷された後に判明した、名画についての新発見でも取り上げています。写真に残る「元の姿」と、目の前の「現在の姿」。どちらを本物と呼ぶかという問いについては、あなたが見ているのは、どの版?——複数存在する名画たちもあわせてお読みください。
デルランジェはパリで買い手を見つけられませんでした。1881年、彼はこの連作をスペイン国家に寄贈します。
そして聾者の家は1909年に取り壊されました。
作者をめぐる議論
この連作の作者がゴヤであることは、通説として確立しています。
ただし異論があります。美術史家フアン・ホセ・フンケーラは、作品の一部が置かれていた二階部分が、ゴヤの死後に増築された可能性を指摘しました。この点から、連作の少なくとも一部はゴヤ以外の手によるのではないかという説が提起されています。
これは少数意見であり、プラド美術館は採用していません。ただし議論自体は存在します。
見どころ
目。異常に見開かれ、白目が大きく露出しています。焦点が合っていません。この顔は加害の表情ではなく、錯乱の表情です。
手。指が肉体に食い込んでいます。爪の描写はなく、指の圧力だけが示されています。
食べられている者。神話ではサトゥルヌスが飲み込むのは生まれたばかりの子です。ところがこの画面の身体は成人のものです。頭部と右腕はすでにありません。性別も判別できません。
光。下方から当たっているように見えます。顔が下から照らされることで骨格が強調されます。
背景。完全な黒です。空間も場所もありません。
筆致。粗く、速く、厚く置かれています。細部は省略されています。壁に直接描いていることを考えれば、この処理は自然でもあります。
何を意味するのか
解釈は分かれています。
政治的読解。権力が国民を食い尽くす図。1820年代のスペインは、フェルナンド7世の絶対王政復古と自由主義者への弾圧のさなかにありました。
時間の寓意。サトゥルヌスはギリシャ神話のクロノスと同一視され、クロノスは時間を意味する語と結びつけられてきました。時が自らの生み出したものを飲み込むという読み方です。
個人的読解。ゴヤには多くの子が生まれましたが、成人したのは息子ハビエル一人でした。
そしてもう一つ。そもそも意味を求めるべきではないという立場です。この絵は誰かに見せるために描かれておらず、説明を要求されていません。
フランシスコ・デ・ゴヤについて
ゴヤ(1746~1828)はアラゴンのフエンデトードスに生まれ、王立タペストリー工場の下絵描きから出発し、1799年に首席宮廷画家となりました。
1792年から93年にかけての重病で、聴力を失います。
代表作に『1808年5月3日』、『裸のマハ』、版画集『戦争の惨禍』があります。
1824年、彼はスペインを離れてフランスのボルドーへ移り、そこで没しました。聾者の家の壁画は、出発の前の数年間に描かれています。
遺産と影響
この連作は19世紀のあいだ、ほとんど評価されませんでした。未完成の落書き、あるいは病んだ精神の記録として扱われています。
20世紀に入って状況が変わります。表現主義とシュルレアリスムが、この画面に自分たちの先行者を見出しました。不安や恐怖そのものを画面にしたという点で、ムンクの『叫び』と並べて語られることもあります。
フランシス・ベーコンの歪んだ人体、そして現代のホラー表現の系譜が、しばしばここに遡って語られます。
同じ食堂に掛かっていた『ホロフェルネスの首を斬るユディット』の主題は、カラヴァッジョも扱っています。
2022年には、プラド美術館が現代美術家フィリップ・パレーノの映像作品『キンタ・デル・ソルド』を上映しました。失われた家と庭を3Dで再建し、床のきしみや暖炉の音まで再現して、「黒い絵」を元の空間のなかで体験させる試みでした。壊された家は、映像のなかでだけ立ち戻ったことになります。
日本では?
日本でこの絵が広く知られるようになった大きなきっかけの一つが、ドイツ文学者・中野京子のベストセラー『怖い絵』シリーズです。「恐怖」という切り口で名画の背景を読み解くこのシリーズで、『我が子を喰らうサトゥルヌス』は代表的な一枚として取り上げられ、多くの読者にとって「一度見たら忘れられない絵」になりました。
そしてこの絵に日本で出会える場所が、徳島県鳴門市の大塚国際美術館です。原寸大の陶板で再現された『サトゥルヌス』があり、同館では『怖い絵』に登場する名画をめぐる「怖い絵ツアー」が2009年から人気を集めてきました。2017年の企画では、ゴヤの家の「食堂」をイメージした空間も再現されています。作品の横の二次元コードから、この絵のどこが怖いのかを解説する動画を見られる試みも行われています。
ただし、壁から剥がされ、描き直されたあとの姿を陶板に写したものであることは、オリジナルと同じです。ゴヤが壁に描いた最初の姿は、ロランの古い写真のなかにしか残っていません。
作品が見られる場所
マドリードのプラド美術館、「黒い絵」の連作をまとめて展示する展示室にあります。
- 十四点がまとめて展示されています。この作品だけを見ると、元の環境が持っていた意味が失われます。特に、同じ食堂にあった『ユディット』と併せて見てください。
- 開館は月曜~土曜10時~20時、日曜・祝日10時~19時が基本です。プラドは月曜も開いています。
- 閉館前の二時間ほどが無料入場時間帯です。混雑します。
- 料金と展示室の配置は変更されることがあるため、事前に公式サイトでご確認ください。
同じ美術館に『1808年5月2日』と『1808年5月3日』、『着衣のマハ』と『裸のマハ』、ボスの『快楽の園』、そしてベラスケスの『ラス・メニーナス』があります。
順路の助言。初期のタペストリー下絵から、宮廷肖像、そして黒い絵へと順に見ると、一人の画家のなかで何が変わったのかが見えます。同じ人物が描いたとは思えない落差があります。
この絵の前で最後まで残るのは、この画面が本来ここにあるべきものではないという事実です。壁に描かれ、剥がされ、描き直され、値がつかず、国に贈られ、そして家は壊されました。ゴヤが食堂の壁にこれを描いたとき、それを見る人間は彼だけでした。
画像: Saturno devorando a su hijo – フランシスコ・デ・ゴヤ、1820~23年頃、プラド美術館蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.
