The Kiss by Gustav Klimt, 1908

接吻 – 国が未完成のまま買い取った絵

1908年6月、ウィーンの美術展「クンストシャウ」に『恋人たち』という題で出品されたとき、この絵はまだ完成していませんでした。写真家モリツ・ネーアが撮影した会場写真には、のちに知られる姿とは違う「最初の版」が写っています。それでも国の芸術省は、会期中にこの絵を25,000クローネで買い上げました。当時としても破格の価格です。完成したのは翌1909年。そしてその年の秋、美術館の目録で初めて、この絵は『接吻』と呼ばれました。

基本情報

注文のない絵

この絵は、誰かに頼まれて描かれたものではありません。ベルヴェデーレによれば、クリムトは「黄金時代」の頂点で、注文なしにこの作品に取りかかり、1907年頃に描き始めたと考えられています。

1908年6月1日、フランツ・ヨーゼフ1世の即位60周年を祝う年に、現在のウィーン・コンツェルトハウスの敷地で「クンストシャウ」が開幕しました。クリムトと仲間たちが建物から展示まで総合的に作り上げた展覧会で、その頂点がクリムトの展示室でした。この絵はそこで公開され、芸術省が会期中に、現在のベルヴェデーレの前身である近代美術館(モデルネ・ギャラリー)のために購入しています。

題名が『接吻』になったのは、完成後の1909年秋のことです。名作の題名は、画家がつけたものとはかぎりません。こうした名作をめぐる「当たり前」の再検討については、教科書が印刷された後に判明した、名画についての新発見でも取り上げています。

足元を見てください

この絵でもっとも語られない部分が、女性の足元です。

彼女は花咲く草地の縁に跪いています。そしてその縁から外に出ているのは、足の指だけです。その先には何もありません。金色の空白が広がっているだけです。

手も見てください。彼女の指は、男性の手に添えられていますが、力が入っています。顔は横を向き、目は閉じられています。

この絵を、愛の完全な融合として読むのが一般的です。しかし別の読み方もあります。これは結合の瞬間ではなく、一方が身を引く直前の瞬間ではないか、という読み方です。

どちらが正しいかは決められません。ただ、この画面が単純な幸福の絵ではないことは、足の指と手の緊張が示しています。

金と、金ではないもの

まず金です。クリムトは二人の人物に、本物の金箔だけでなく銀箔とプラチナ箔を使い分けて重ねました。照明の角度によって輝き方が変わるため、この効果は写真では再現できません。実物の前でしか起きないことです。複製では決して受け取れないものがある——この点は、名画を実際に見ることが脳に何をもたらすかを論じた名画は脳に何をするのかとも重なります。

ところが、背景の大きな金色の面は、純金ではありません。ベルヴェデーレの記録によれば、背景に使われているのは真鍮の箔で、その上に透明な絵具の層を重ね、金属箔の細かな片を散らしてあります。私たちが「金の絵」と呼んでいる画面の相当部分は、真鍮の輝きなのです。四百年前のボッティチェリが『ヴィーナスの誕生』の髪に本物の金を引いたのとは、対照的な選択です。

次に模様です。男性の衣には黒と白の長方形が並び、女性の衣には円と花と楕円が散っています。二人は一つの金色の形に包まれていますが、その内側では別々の文様を持ち続けています。個が溶けきらないまま重なっている状態です。

男性の頭には蔦の冠があります。これはディオニュソスに連なる異教の図像です。同時に背景の金は、ビザンティンのイコンの光背を思わせます。画面には古代エジプトの神話をはじめ、さまざまな時代の文様が織り込まれています。

ただしベルヴェデーレは、これらの文様を伝統的な象徴としてだけ読むのでは不十分だとしています。近年の研究は、そこにクリムトとエミーリエ・フレーゲとの関係や、彫刻家オーギュスト・ロダンの作品への関心が映り込んでいることを指摘しています。

金はどこから来たか

1903年、クリムトはラヴェンナを訪れ、ビザンティンのモザイクを見ました。平面的で奥行きのない金色の地に、彼は強い衝撃を受けます。

ただし、金の起源を一つの旅に還元するのは正確ではありません。彼の父は金彫刻師であり、弟ゲオルクも金属工芸の道に進みました。もう一人の弟エルンストは画家で、若い頃のクリムトと共同で劇場装飾を手がけましたが、1892年に亡くなっています。そこに日本の浮世絵、中世の金工、ウィーン工房の装飾的な志向が重なりました。突然の啓示ではなく、いくつもの流れの合流と見るほうが実情に近いでしょう。とりわけ日本美術の影響は大きく、平面的な構図や装飾性は、北斎『神奈川沖浪裏』をはじめとする浮世絵が19世紀末のヨーロッパにもたらしたジャポニスムと深く結びついています。

この時期は「黄金時代」と呼ばれ、この作品はその頂点に位置づけられます。

歴史的背景

1900年前後のウィーンは、フロイトが無意識を論じ、マーラーが交響曲を書き、建築と工芸が一斉に変わろうとしていた都市でした。

クリムトはウィーン分離派を創設し、アカデミズムに正面から対立しました。ウィーン大学のために描いた三点の学部絵画は激しい非難を浴び、彼は依頼を取り下げて報酬を返しています。

そうした対立の後にこの絵が現れ、国家が高額で買い取ったという事実は、当時としては劇的な逆転でした。

モデルは誰か

確定していません。

クリムト自身と生涯の伴侶エミーリエ・フレーゲとする説が最も有名ですが、本人が認めた記録はありません。「赤毛のヒルダ」と呼ばれたモデルを挙げる説もあります。

グスタフ・クリムトについて

クリムト(1862~1918)はウィーン郊外バウムガルテンで、金彫刻師の子として生まれました。ウィーン工芸美術学校で学び、当初は弟エルンストらと劇場装飾などの仕事で成功します。

1897年にウィーン分離派を創設。「時代にはその芸術を、芸術には自由を」という言葉が分離派会館に刻まれました。

1918年1月11日に脳卒中で倒れ、その後肺炎を併発して2月6日に没しました。55歳でした。当時ヨーロッパではスペイン風邪が流行していました。

この絵がたどった道

1908年に国家が購入して以来、この作品はオーストリアの所有です。

第二次世界大戦中、オーストリアの美術品は各地に疎開されました。1945年5月、退却するSS部隊がイメンドルフ城に火を放ち、そこに保管されていた作品群が失われます。その中にはクリムトの学部絵画三点が含まれていました。『接吻』は別の場所に保管されており、無事でした。

戦後、上宮の再開館とともに常設展示に戻り、以後ほとんど貸し出されていません。この作品を見るにはウィーンに行くしかありません。

遺産と影響

装飾と象徴を融合したこの様式は、20世紀のグラフィックデザインと工芸に深く入り込みました。エゴン・シーレやオスカー・ココシュカは、クリムトの周辺から出発して別の方向へ進んだ画家たちです。同じ世紀末のヨーロッパで、内面や不安を画面に刻んだ画家としては、ムンクの『叫び』がしばしば対置されます。

現在この絵は、世界でもっとも複製された西洋絵画の一つです。ただしその複製のほとんどは、実物の最大の特徴である金属の反射を伝えられません。

日本では?

クリムトと日本の結びつきは、作品の内側から始まっています。彼は日本の美術品に強く惹かれ、その平面性と装飾性を自らの画面に取り込みました。

その関係を正面から取り上げたのが、2019年に東京都美術館と愛知県の豊田市美術館で開かれた「クリムト展 ウィーンと日本 1900」です。クリムトの没後100年と日本オーストリア友好150周年を記念したこの展覧会には、日本で開かれた展覧会として過去最多となる25点以上の油彩画が集まり、『ユディトI』や、日本初公開となった『女の三世代』が並びました。クリムトが影響を受けた日本の美術品も、あわせて展示されています。

それでも、『接吻』は来ませんでした。ベルヴェデーレはこの絵をほとんど外に出さないからです。ただ、日本でクリムトの実物に出会える場所はあります。豊田市美術館は、晩年の肖像画『オイゲニア・プリマフェージの肖像』(1913/14年)を所蔵しています。黄金時代の後に、クリムトがどんな色彩へ向かったのかを見せてくれる一枚です。

作品が見られる場所

ウィーンのベルヴェデーレ宮殿・上宮にあります。この美術館は世界でもっとも重要なクリムトのコレクションを持っています。

  • 開館時間と料金は変更されることがあるため、事前に公式サイトでご確認ください。曜日によって閉館時刻が異なります。
  • 時間指定のオンライン予約を推奨します。
  • 平日午前が最も空いています。
  • 同じ館にエゴン・シーレ、オスカー・ココシュカ、そしてファン・ゴッホの『オーヴェールの平原』があります。
  • バロック様式の庭園から下宮まで歩けます。

この絵の前で最後まで残るのは、金の輝きではなく縁です。二人が立っているのは平地ではなく、草地が途切れる場所です。その先には何もありません。クリムトは、もっとも幸福に見える瞬間を、落ちる直前の位置に置きました。

画像: Der Kuss – グスタフ・クリムト、1908/09年、ベルヴェデーレ宮殿蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.

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