ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 – もう一点は三十年間見られていない
この絵にはもう一点、ほぼ同じ構図の作品があります。そちらは1990年5月17日、ニューヨークのサザビーズで7,810万ドルで落札されました。買ったのは大昭和製紙の名誉会長・齊藤了英です。その二日前、同じ人物がゴッホの『ガシェ博士の肖像』を8,250万ドルで落札していました。四十八時間で1億6千万ドルです。そして齊藤はのちに、この二点を自分の死後に棺で一緒に焼いてほしいと発言し、国際的な批判を浴びることになります。
基本情報
- 作者: ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919)
- 制作年: 1876年
- 技法: 油彩・カンヴァス
- 寸法: 131.5 × 176.5 cm
- 場所: パリ・モンマルトルの野外ダンス場「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」
- 芸術運動: 印象主義
- 所蔵先: オルセー美術館(パリ)
二点あります
この主題には二つの作品が存在します。
オルセー版。131.5 × 176.5 cm。本作です。
もう一点。78 × 114 cm。小さいとはいえ、習作と呼ぶには大きな作品です。
どちらが先に描かれ、どちらが決定版なのかについては、研究者のあいだで見解が分かれています。オルセー版を完成作とし他方を習作と見る説と、その逆の説があります。
二点目の来歴は冒頭に述べたとおりです。齊藤了英の発言は後に撤回されましたが、彼は1996年に死去しました。作品はその後、私的に売却されたと報じられています。
以来、公開されていません。現在の所在も明らかにされていません。
つまりこの主題の二点のうち一点は、三十年以上、誰も見ていないことになります。
この作品が忘れられない理由
この画面には中心がありません。
手前で会話する人々、奥で踊る人々、さらに奥の群衆。どこか一点を主役として据えていないため、視線は画面のなかを移動し続けます。
そして支配しているのは木漏れ日です。アカシアの葉を通した光が、人々の顔や服の上に青みがかった斑点となって落ちています。
この処理は当時、理解されませんでした。批評家の一人は、人物が黴だらけに見えると書いています。顔に青い斑点が置かれた肖像を、当時の目は病変として読んだのです。
誰が描かれているか
この絵の人物たちは、モンマルトルでルノワールの周囲にいた実在の人々です。
手前の縞のドレスの女性。エステルという少女で、その隣のジャンヌの妹です。二人は近所に住む娘たちでした。
テーブルの男たち。ジャーナリストのジョルジュ・リヴィエール、画家のピエール=フラン・ラミとノルベール・グヌット。いずれもルノワールの友人です。
中央で踊る男。キューバ出身の画家ペドロ・ビダル・デ・ソラレス・イ・カルデナス。相手の女性はモデルのマルゴです。
労働者階級の若者たちの集い、と説明されることがありますが、正確ではありません。画家、記者、モデル、そして界隈の娘たち。芸術家の周辺と地元の住民が混ざった場です。
その場で描いたのか
この絵をめぐってよく語られるのは、ルノワールが巨大なカンヴァスを会場まで運んで現地で描いた、という話です。
出典はジョルジュ・リヴィエールです。彼は、コルト通りのアトリエから毎日カンヴァスを運んだと書いています。彼自身が画面に描かれている人物ですから、証言としては重みがあります。
ただし、この大きさの画布を毎日運搬して屋外で制作することの現実性については疑問も出ています。現地で多数の習作を描き、最終的にアトリエで組み上げたとする見方が有力です。
いずれにせよ、この絵が現場の観察に基づいていることは確かです。
見どころ
光の斑点。顔と服に散る青白い点が、この絵の核心です。近づいて見ると、それが筆で置かれた独立した色の粒であることがわかります。
奥行きの処理。手前の人物は輪郭が明確で、奥へ行くほど溶けていきます。写真的な遠近ではなく、目の焦点が合っていない部分の見え方です。
テーブルの上。グラス、瓶、帽子。当時の日曜午後の道具です。
ガス灯。画面上部に球形のランプが吊るされています。日が落ちても続く催しでした。
歴史的背景
1876年のパリは、普仏戦争とパリ・コミューンの動乱から回復しつつある時期でした。
モンマルトルは当時まだパリの周縁で、家賃が安く、画家が集まる地区でした。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは古い風車を転用したダンス場で、毎週日曜に営業していました。
この作品は1877年の第3回印象派展に出品されました。印象派はまだ嘲笑される存在であり、この絵も批判を受けています。
そして同じモンマルトルの風車小屋は、後にスーラやロートレックの主題にもなります。
ピエール=オーギュスト・ルノワールについて
ルノワール(1841~1919)はリモージュに生まれ、十三歳で磁器の絵付け職人として働き始めました。この経験が、後の肌の描写に影響しています。
パリでモネ、シスレー、バジールと出会い、1874年の第1回印象派展に参加しました。
この絵の五年後、彼は『ボート・パーティーの昼食』を描きます。それが印象派の方法による最後の大作となり、以後イタリア旅行を経て画風を変えました。
晩年はリウマチで手が変形し、筆を手に固定して描き続けました。1919年に没しています。
この絵がオルセーにある経緯
最初の所有者は画家ギュスターヴ・カイユボットでした。仲間の作品を買い支えていた人物で、『ボート・パーティーの昼食』にも描かれています。
1894年に彼が死去すると、遺言によりコレクションが国家に遺贈されました。ところが国は受け入れを渋り、交渉の末に一部のみを受領します。この作品はその中に含まれました。
リュクサンブール美術館、ルーヴルを経て、1986年のオルセー美術館開館とともに現在の場所へ移っています。
作品が見られる場所
パリのオルセー美術館にあります。
- 開館は火曜~日曜9時30分~18時、木曜は21時45分まで。月曜休館です。
- オンラインでの事前予約を推奨します。開館直後が最も空いています。
- 展示室の配置は変更されるため、訪問前に現在の位置をご確認ください。
- 同館にモネ、ドガ、マネの作品が集まっています。
そして舞台はまだあります。モンマルトルのムーラン・ド・ラ・ギャレットの風車は現存し、周辺はレストランになっています。オルセーから地下鉄で二十分ほどです。
この絵の前で最後まで残るのは、青い斑点です。当時の批評家はそれを病変と読みました。ルノワールが描いたのは木の葉を通った日曜の光であり、その光は同じ場所で今も落ちています。
画像: Bal du moulin de la Galette – ピエール=オーギュスト・ルノワール、1876年、オルセー美術館蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.
