14歳の小さな踊り子 – 批評家が語ったのは顔だった
1881年4月、この彫刻がガラスケースに入れられて展示されたとき、批評家たちは彫刻の話をしませんでした。彼らが書いたのは少女の顔についてです。ポール・マンツはこれを「早熟な堕落の花」と呼び、別の批評家はその顔に「あらゆる悪徳の約束が刻まれている」と書きました。当時流行していたチェーザレ・ロンブローゾの犯罪人類学は、犯罪性が顔立ちに現れると主張していました。観客はこの少女に、その顔を見たのです。
基本情報
- 作者: エドガー・ドガ(1834~1917)
- 原作: 1878~1881年、蜜蝋、本物の毛髪、絹のリボン、コルセット、チュチュ、バレエシューズ
- 初公開: 1881年4月、第6回印象派展
- 寸法: 高さ約98cm
- 芸術運動: 印象主義
- 所蔵: 蝋の原作はワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アート。ブロンズ鋳造は28点あり、オルセー美術館ほか各地にあります
一年遅れた登場
ドガはこの作品を1880年の第5回印象派展に出品すると告知しました。ところが完成しませんでした。
会場には空のガラスケースだけが置かれ、目録には作品名が記されていました。
実際に展示されたのは翌1881年4月です。ドガは会期の途中で搬入しました。
そして展示方法が異例でした。彫刻はガラスケースに収められていました。台座の上に置かれた作品ではなく、標本のように囲われた状態です。当時の観客は、それを美術品というより博物学的な陳列として受け取りました。
なぜ非難されたのか
批判は素材にも向けられましたが、中心は顔でした。
19世紀後半のヨーロッパでは、犯罪人類学が広く読まれていました。イタリアの医師チェーザレ・ロンブローゾは、犯罪者には特定の身体的特徴があり、外見から見分けられると主張していました。前に突き出た顎、傾斜した額、低い眉。
ドガはこの理論を知っていました。同じ1881年の展覧会に、彼は裁判で審理中だった少年犯罪者たちのパステル画も出品しています。
観客はこの少女の顔に、そこで論じられていた特徴を読み取りました。批評は「猿のような」「アステカ人のような」といった言葉を使い、彼女の将来の堕落を予言しました。
つまり非難されたのは彫刻の出来ではなく、そこに描かれた階級と、その階級に割り当てられた運命でした。
マリー・ヴァン・ゴーテムに何が起きたか
モデルの名はマリー・ジュヌヴィエーヴ・ヴァン・ゴーテム。1865年、パリで生まれました。両親はベルギーからの移民で、父は仕立屋、母は洗濯女でした。
姉のアントワネットと妹のルイーズ=ジョゼフィーヌも踊っていました。三姉妹が働かなければ家計が成り立たない状況です。
オペラ座のバレエ学校の生徒は「プティ・ラ(小さなネズミ)」と呼ばれていました。彼女たちは低賃金で長時間の訓練を受けます。
そして楽屋には「アボネ」と呼ばれる定期会員の男性たちが出入りできました。裕福な有力者たちです。少女たちが彼らの相手をすることは公然の慣行であり、母親が仲介する例も少なくありませんでした。
ドガはこの世界を知り尽くしていました。彼のバレエ作品の多くに、舞台袖に立つ黒い服の男が描かれています。
1882年、マリーは無断欠席を理由にオペラ座を解雇されました。十七歳でした。
その後の記録はありません。いつ死んだのか、どこで死んだのかもわかっていません。
彼女の姉アントワネットは窃盗で三か月服役した記録が残っています。
作品の見どころ
姿勢。両手を背中で組み、片足を前に出し、顎を上げています。バレエの第四ポジションに近い形ですが、休息の姿勢でもあります。訓練の合間に立っている状態です。
目。ほとんど閉じられています。彼女はこちらを見ていません。
本物の素材。原作には本物の人毛が植えられ、リボンで結ばれていました。コルセット、チュチュ、バレエシューズはすべて実物です。蝋の肌には色が塗られていました。
この手法に前例がなかったわけではありません。宗教彫刻や蝋人形館では実物の衣装が使われていました。問題は、それを美術展に持ち込んだことです。当時の批評はこの作品を蝋人形館に属するものだと非難しました。
ブロンズ版の布。鋳造された作品にもチュチュとリボンが付けられています。ただしこれらは布であるため劣化し、美術館は定期的に交換しています。今日見えている布は19世紀のものではありません。
蝋からブロンズへ
ドガが生前に公開した彫刻はこの一点だけです。
蝋の原作は彼のアトリエに残り続けました。1917年に彼が没したとき、アトリエからは150点近い蝋と粘土の彫刻が見つかりました。多くは崩れかけていました。
遺族はエブラール鋳造所に鋳造を依頼します。型を取ったのは彫刻家アルベール・バルトロメでした。1922年から1937年にかけて、28点のブロンズが作られました。
ここで問題が生じます。ドガはブロンズ化を指示していません。つまり現存する「作品」の大半は、作者が承認していない死後の産物です。
この点はロダンの『考える人』と同じ構造ですが、ロダンは遺言で鋳造を認めていました。ドガは何も残していません。
蝋の原作は1956年、ポール・メロンが購入し、現在はワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートにあります。
エドガー・ドガについて
ドガ(1834~1917)はパリの裕福な銀行家の家に生まれました。印象派展に参加しましたが、自分を印象派とは呼ばず、戸外制作を軽蔑していました。
彼が繰り返し描いたのはバレエです。ただし舞台の華やかさではなく、稽古場、待機、疲労、そして舞台袖の男たちでした。
晩年、視力が著しく低下します。手で触れて確かめられる彫刻へ重心が移ったのはそのためです。
遺産と影響
実物の素材を彫刻に組み込むという方法は、20世紀の美術が本格的に展開することになります。ダダとシュルレアリスム、そして現代のアッサンブラージュがこの系譜にあります。
そして近年、この作品をめぐる議論の重心は移りました。かつては素材の革新性が語られましたが、現在はマリー・ヴァン・ゴーテムという実在の少女の生活と、彼女が置かれた構造が主題になっています。
2014年にはワシントンで彼女の生涯を扱った舞台作品が上演され、複数の伝記的研究も出版されています。名前しか残らなかった少女を、記録から復元しようとする作業が続いています。
作品が見られる場所
蝋の原作はワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートにあります。ドガが実際に作ったものを見るには、ここへ行く必要があります。
ブロンズ版は各地にあります。
- パリのオルセー美術館。開館は火曜~日曜9時30分~18時、木曜は21時45分まで、月曜休館です。
- ニューヨークのメトロポリタン美術館、ロンドンのテート、コペンハーゲンのグリプトテク、その他多数。
- 日本国内にもあります。複数の美術館が所蔵しており、企画展で公開されることがあります。訪問前に各館の公式サイトでご確認ください。
オルセーでは『ダンス教室』をはじめとするドガの絵画と併せて見ることができます。絵のなかで舞台袖に立つ黒服の男を探してみてください。この彫刻の文脈が変わります。
そして28点のブロンズは同一ではありません。鋳造時期、パティナ、布の状態が異なります。複数の館で見比べる価値があります。
この彫刻の前で最後まで残るのは、彼女が見ていないという事実です。目はほとんど閉じられ、顔は上を向いています。1881年の観客は、その顔を読み取ろうとして、そこに堕落を見つけました。彼女は十七歳で職を失い、それきり記録から消えました。残ったのは、彼女が十四歳のときに立っていた姿勢だけです。
画像: La Petite Danseuse de Quatorze Ans – エドガー・ドガ、原作1881年。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.
