The Starry Night by Vincent van Gogh, 1889

星月夜 – ゴッホはこの空を見ながら描いていない

ファン・ゴッホはこの夜空を見ながら描いたのではありません。サン=ポール=ド=モゾル療養院で、彼は二つの空間を使っていました。東向きの窓に鉄格子のついた二階の寝室と、制作を許された一階の小さなアトリエです。寝室では絵を描くことができませんでした。つまりこの夜空は、昼間に、階下で、何度も眺めた窓の外の記憶をもとに描かれたものです。

基本情報

実在するものと創作されたもの

この画面には、実際に見たものと作り出したものが混在しています。

実在するもの。東の窓の外の地形です。ファン・ゴッホはこの寝室の窓からの眺めを、療養院にいた一年のあいだに何度も描いており、夜の場面はこの一枚だけです。背景の山並みはアルピーユ山脈であり、手前の糸杉も実際にそこにありました。そして空の右手にある大きな星です。

その星の正体は確認されています。ファン・ゴッホはテオにこう書いています。今朝、日の出のずっと前に窓から田園をながめていたが、非常に大きく見える明けの明星のほかには何もなかった、と。天文学者が1889年の春から初夏のプロヴァンスの夜明けの空を逆算したところ、金星がきわめて明るく、位置も彼が書いたとおりでした。

創作されたもの。下部の村です。窓からは実際には見えず、サン=レミの実際の姿とも対応しません。とくに教会の尖った鐘塔はプロヴァンスの建築と合わず、むしろ彼の故郷オランダの教会に近い形だと指摘されています。南フランスの夜景のなかに、オランダの記憶が一つ埋め込まれているわけです。

この作品が忘れられない理由

この絵の空は静止していません。筆致が渦を巻いて画面を横切り、星は点ではなく広がっていく光の輪として描かれています。

そしてその渦には物理的な裏づけがあるとする研究があります。この画面の明るさの分布が、乱流を記述するコルモゴロフの理論と一致するかどうかは、以前から研究者のあいだで議論されてきました。2024年9月、中国・厦門大学の研究チームが学術誌『フィジックス・オブ・フルイズ』に論文を発表します。画面のなかの14の主要な渦をすべて分析したところ、大きなスケールではコルモゴロフの法則に、より小さなスケールではバチェラーの法則にそった分布が現れたというのです。渦の大きさだけでなく、互いの距離や強さまでが、乱流を支配する物理法則にしたがっていました。コルモゴロフの理論が発表されたのは1941年、この絵が描かれてから五十二年後のことです。長年の謎に新しい光を当てた研究については、教科書が印刷された後に判明した、名画についての新発見でもまとめています。

研究チームは、ファン・ゴッホが雲や大気の動きをきわめて注意深く観察していたか、空の躍動を捉える天性の感覚を持っていたのだろうと述べています。一方で、乱流の研究者のなかには、乱流のように見えるものを描けば統計が似てくるのは自然なことであり、驚くべき偶然以上のものではないと見る人もいます。

いずれにしても、これは彼が物理学を知っていたという意味ではありません。彼はきわめて長く、きわめて注意深く夜空を見ていました。

象徴と見どころ

糸杉。画面左で炎のように立ち上がり、空へ伸びます。ヨーロッパでこの木は古くから墓地に植えられ、死と結びついてきました。ファン・ゴッホは同じ時期の手紙で、糸杉が頭から離れない、エジプトのオベリスクのように美しいと書いています。この木は画面で唯一、地と天をつなぐ要素です。

村の灯り。窓から漏れる黄色い四角は画面でもっとも静かな部分です。空が激しく動いているあいだ、村は何事もないかのように眠っています。この対比が緊張を生みます。

青と黄。色相環でほぼ向かい合う二色です。この組み合わせが画面全体を支えています。

三日月。右上で過剰に明るく燃えています。実際の三日月よりはるかに強い光です。

本人は失敗作と考えていました

興味深い事実があります。彼はこの絵を高く評価していませんでした。

1889年の秋、テオへ作品をまとめて送る際、彼は送料を節約するために三点を手元に残しましたが、この絵はそのうちの一つでした。そして同じ年の11月、画家仲間のエミール・ベルナールへの手紙のなかで、彼はこう書いています。またしても星を大きくしすぎてしまった、新たな失敗だ、もうたくさんだ、と。

理由は彼の制作原則にあります。目の前の対象を見ながら描くことを信条としていた彼にとって、この絵はその原則から外れた結果でした。想像に引きずられて誇張してしまった、と考えたのです。

世界でもっとも有名な絵の一つが、画家本人にとっては失敗として残りました。

歴史的背景

1888年12月、アルルでのゴーギャンとの共同生活が破綻し、耳の一部を切り落とした後、ファン・ゴッホは1889年5月にサン=レミ=ド=プロヴァンスのサン=ポール=ド=モゾル療養院に自らの意志で入りました。費用は弟テオが負担しています。

彼はそこで一年を過ごし、150点近い作品を描きました。翌年初め、甥の誕生を祝って描いた『アーモンドの花』も、アルルの部屋を記憶から描き直した『ベッドルーム』の第二版も、ここで生まれています。

夜空は彼が長く取り組んだ主題でした。アルルですでに『夜のカフェテラス』と『ローヌ川の星月夜』を描いています。この二点とよく混同されますが、本作とは別の作品です。アルルの二点は夜の現場で描かれ、この絵は昼のアトリエで描かれました。彼は、夜は昼より色が豊かであり、星は黒い空の上の白い点ではなく黄色や桃色や緑色をしていると書いています。

フィンセント・ファン・ゴッホについて

ファン・ゴッホ(1853~1890)は二十七歳で絵を始め、十年に満たない期間に油彩約900点、素描1,100点以上を残しました。代表作には『ひまわり』や、最初の『ベッドルーム』があります。

広く流布している話を一つ訂正しておく必要があります。生前に売れた絵は一枚だけだった、という話です。1890年にアンナ・ボックが『赤い葡萄畑』を購入したのは事実ですが、ファン・ゴッホ美術館はこの「一枚」という数字を根拠のない通説としています。彼は他の作品も売り、あるいは交換しています。

1890年7月、三十七歳で世を去りました。

日本では?

ファン・ゴッホが南フランスへ向かった理由の一つは、日本でした。パリで浮世絵に夢中になった彼は、数百点の版画を集め、広重の『大はしあたけの夕立』を油彩で写すほどでした。明るい光と澄んだ色に満ちたプロヴァンスに、彼は自分にとっての「日本」を見ようとしたのです。北斎の『神奈川沖浪裏』に代表される浮世絵の大胆な線と平らな色面は、この夜空の渦巻く筆致の背景にも流れています。

そして日本では、サン=レミ時代のファン・ゴッホにまとめて出会える機会が近づいています。2025年から2026年にかけて『夜のカフェテラス』を中心に神戸・福島・東京を巡回した「大ゴッホ展」には第2期が予定されており、2027年から2028年にかけて、アルルからサン=レミ、オーヴェール=シュル=オワーズに至る晩年の作品が紹介される予定です。ただし『星月夜』そのものはニューヨーク近代美術館の作品であり、この展覧会の出品作ではありません。会期と内容は公式発表でご確認ください。

遺産と影響

この作品は1941年、リリー・P・ブリス遺贈基金を通じてMoMAの所蔵となりました。

20世紀の表現主義の画家たちは、感情を色と形で表現する方法をここから引き継ぎました。ムンクの『叫び』がしばしば併せて語られるのもそのためです。どちらの作品でも、空が人物や風景よりも激しく動いています。

大衆文化における位置も確立しています。ドン・マクリーンの「ヴィンセント」、無数の映画と広告、そして世界中の美術館のショップで売られる商品が、このイメージを反復しています。

作品が見られる場所

ニューヨーク近代美術館のコレクション展示室にあります。マンハッタン53丁目、地下鉄E・M線5番街-53丁目駅から徒歩5分です。

  • 平日午前の開館直後が最も空いています。この絵の前には常に人がいます。
  • MoMA公式アプリを事前に入れておくと、音声ガイドを無料で利用できます。
  • 同じ館にはモネの『睡蓮』の大型三連画とピカソの『アヴィニョンの娘たち』があります。
  • 展示階や展示室は展示替えで変わることがあり、貸出や保存作業で不在になることもあります。この絵を目的に行かれる場合は公式サイトでご確認ください。

なお、サン=レミのサン=ポール=ド=モゾル療養院は現在も残り、一部が公開されています。彼の部屋と東向きの窓を見ることができます。ただしその窓から、この絵と同じ光景は見えません。村がないからです。

混雑した展示室で、人は名画の前に平均して数十秒しか立ち止まりません。その数十秒のあいだ脳に何が起きているのかについては、名画は脳に何をするのかで取り上げています。

この絵の前で最後まで残るのは、空ではなく位置です。ファン・ゴッホはその空を見ながら描くことができませんでした。昼間に、階下のアトリエで、記憶から描いたのです。そしてその結果を、彼自身は失敗と呼びました。

画像: De sterrennacht – フィンセント・ファン・ゴッホ、1889年6月、ニューヨーク近代美術館蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.

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