The Third of May 1808 by Francisco Goya, 1814

1808年5月3日 – 地面に置かれたランタンの光

この絵の光源は、画面のなかにあります。地面に置かれた四角い箱型のランタンです。それまでの絵画で光は、画面の外から差すか、天から降りてくるものでした。ここでは人が地面に置いた道具が、処刑される男を照らしています。神の光ではありません。作業のための明かりです。

基本情報

ゴヤは見ていたのか

この作品について広く語られる話があります。ゴヤが処刑の現場に居合わせ、その場で写生したという説です。

これは確認されていません。

出典は、ゴヤの庭師イシドロの証言とされるものです。5月3日の夜、主人に付き添って丘まで行き、望遠鏡で現場を見ながらゴヤが素描したという内容で、事件から何十年もたってから記録されました。

この時ゴヤは六十二歳で、すでに聴力を失っていました。占領下の夜間のマドリードで、処刑場まで出向いて写生したとは考えにくいことです。今日では、ゴヤが目撃者の証言や伝聞をもとに、この場面を再構成したと考えるのが一般的です。

前日の蜂起を描いた『1808年5月2日』についても事情は同じです。二点とも、六年後に組み立てられた絵です。名画をめぐる「画家はその場にいた」という物語が、後から生まれた伝説だった例は、教科書が印刷された後に判明した、名画についての新発見でも取り上げています。

制作の経緯

1814年2月24日、ゴヤは摂政評議会に願書を提出しました。ヨーロッパの暴君に対する蜂起の、最も注目すべき英雄的行為を絵筆によって後世に伝えたいという内容です。同時に、カンヴァスと絵具の代金、および制作期間中の手当の支給を求めています。

背景があります。占領期、ゴヤはジョゼフ・ボナパルトの宮廷でも職を保っていました。フランス側の人物を描き、ジョゼフが創設した勲章も受けています。

フェルナンド7世の復位後、占領期にフランス側と関わった者への審査が始まりました。ゴヤもその対象でした。

この願書は、その状況下で出されたものです。

見どころ

白いシャツの男。両腕を広げ、目を見開いています。この姿勢は磔刑のキリストを想起させます。そして右の掌に、傷のような描写があります。聖痕と読む研究者がいます。

ただし彼は聖人ではありません。恐怖に顔を歪めた市民です。

兵士たち。顔が見えません。背中を向け、同じ姿勢で銃を構えています。個人ではなく、機構として描かれています。

ゴヤはこの構図によって、兵士を個人として非難する対象から外しました。彼らは命令を執行する装置です。

修道士。白いシャツの男の隣に、剃髪した修道士がひざまずき、手を組んでいます。この画面で祈っている唯一の人物です。

顔を覆う男たち。順番を待つ列のなかに、手で顔を覆っている人物がいます。見ることを拒んでいます。

すでに死んだ者。手前に倒れた遺体があります。血は地面に広がり、手前へ流れてきます。

背景。暗い建物の輪郭が並びます。教会の塔とされることもありますが、判別は困難です。いずれにせよ、そこに救いはありません。

色。黒、褐色、灰色の画面のなかで、白いシャツと黄色いズボン、そしてランタンの光だけが明るく置かれています。

その場所は今もあります

処刑が行われたのはマドリード西部のプリンシペ・ピオの丘、旧サン・ビセンテ門の付近です。

この日に処刑された人々は、近くの小さなフロリダ墓地に葬られ、いまも記念の場所として守られています。

そしてそこから遠くない場所にサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂があります。

この聖堂の円蓋のフレスコ画は、ゴヤが1798年に描いたものです。そして20世紀初めに移されたゴヤ自身の遺骸が、その下に眠っています。

彼が描いた処刑の場と、彼が壁画を描いた聖堂と、彼が埋葬された場所が、徒歩圏内に並んでいます。

長く評価されませんでした

この二点は1814年に完成しましたが、すぐには公開されませんでした。

フェルナンド7世の王政にとって、民衆が自発的に蜂起したという物語は必ずしも望ましいものではありませんでした。作品は長く人目に触れない時期を過ごしています。

その後プラド美術館に展示されるようになりますが、19世紀を通じて評価は高くありませんでした。当時の批評は、素描が粗い、構成が整っていない、仕上げが不十分だと指摘しています。

この作品が戦争画の転換点として位置づけられたのは20世紀に入ってからです。

1938年の事故

スペイン内戦中、共和国政府はマドリードの美術品を疎開させました。

1938年、この二点を積んだ輸送車がバレンシア地方のベニカルロ付近で事故を起こし、作品が損傷しています。とりわけ『5月2日』の傷みは大きいものでした。

本格的な修復は、事件から二百年を迎えた2008年に向けて行われました。

フランシスコ・デ・ゴヤについて

ゴヤ(1746~1828)はアラゴンのフエンデトードスに生まれ、王立タペストリー工場の下絵描きから出発して、1799年に首席宮廷画家となりました。

1792年から93年にかけての重病で聴力を失います。以後の仕事に、版画集『戦争の惨禍』と、晩年に自宅の壁に描いた『黒い絵』連作があります。

彼は『裸のマハ』をめぐって宗教裁判所の審問も受けました。

遺産と影響

マネは1867年から69年にかけて『皇帝マクシミリアンの処刑』を制作しました。1865年にマドリードでゴヤを見た後のことで、構図の借用は明白です。

ピカソの『ゲルニカ』(1937年)も同じ系譜に置かれます。

共通しているのは、勝者の側に立たないという選択です。この作品以前、戦争画は勝利を記念するものでした。十数年後にドラクロワが描いた『民衆を導く自由の女神』が蜂起する民衆を英雄として描いたのに対し、ゴヤは殺される民衆を描きました。

日本では?

『1808年5月3日』はプラドを離れることのない絵です。しかし日本では、ゴヤの「戦争を見つめる目」に別のかたちで出会うことができます。

1971年、東京・上野の国立西洋美術館で開かれたゴヤ展では、『裸のマハ』と『着衣のマハ』が対で出品され、晩年の「黒い絵」がパネルで紹介されて話題を呼びました。それから四十年後の2011年から2012年にかけて、同じ国立西洋美術館で「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」展が開かれます。40年ぶりに来日した『着衣のマハ』をはじめ、プラドの油彩や素描72点に、国立西洋美術館などが所蔵する版画51点を加えた展覧会でした。

この展覧会の副題は「雅宴から動乱へ」。宮廷の華やかな肖像画から、ナポレオンの侵略がもたらした民衆の悲惨へと、ゴヤのまなざしが移っていく過程がたどられました。その中心にあったのが、『1808年5月3日』と同じ時代の暴力を記録した版画集『戦争の惨禍』です。銃殺の場面を描いた油彩は来なくても、日本の美術館が持つ版画のなかに、同じ目で見られた戦争が残っています。

作品が見られる場所

マドリードのプラド美術館にあります。

  • 『1808年5月2日』と並べて展示されています。二点は一対として構想されました。
  • 開館は月曜~土曜10時~20時、日曜・祝日10時~19時が基本です。プラドは月曜も開いています。
  • 閉館前の二時間ほどは無料入場時間帯ですが、混雑します。
  • 料金と展示室の配置は変更されることがあるため、事前に公式サイトでご確認ください。
  • 同じ美術館に『黒い絵』連作、『カルロス4世の家族』、ベラスケスの『ラス・メニーナス』があります。

時間があれば、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂へ行ってください。プラドから地下鉄で行けます。ゴヤのフレスコ画と、彼の墓と、この絵の舞台が同じ地区にあります。開館日と時間は事前にご確認ください。

この絵の前で最後まで残るのは、ランタンです。誰かがそれを地面に置き、明かりを向けました。仕事をするために必要だったからです。

画像: El tres de mayo de 1808 en Madrid – フランシスコ・デ・ゴヤ、1814年、プラド美術館蔵。ライセンス: Public Domain. 出典: Wikimedia Commons.

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